数年前悟りを開いた私が質問や問題に答えます。
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>>94
いくらその書物や文が「釈迦の言った言葉だ」ったとしても、その確証が取れない以上、疑わしいものとして採用しないのは当然だと思います。
それにその言葉とやらを信じ従って行動された方で現世で悟れた方はいるんですか?いるんですよね?でしたら是非教えてください。 >>100
釈迦の入滅1500年以後、悟りを開く者は現れないという教えですよ
直前の問いの内容すら忘れるのがあなたの悟りですか? >>100
それ言ったら「悟り」もそうなるし
1が悟り開いたのも信用できないよね
セルフ論破って久しぶりに見た >>97
底つき体験、底打ち体験ともいうのでしょうか。依存を味わい尽くすことですね。
まだあなたは欲を味わい尽くせてないのでは? >>101
そうなんですか。
なるほどあなたはそれを本物だと信じてるんですね。
だったらそれでいいじゃないですか。
それをわざわざわたしに問うということは、
あなた自身がその書物を本物か否か心の底で疑っていませんか? >>102
最初に書きましたけど悟りとは理ですからね。 >>104
底落ち体験で欲がクリアされても、自我によるエゴは残ります
エゴも味わい尽くせば良いのでしょうか?
エゴを味わい尽くすことに終わりはあるでしょうか
エゴの対処法とは? >>105
私は経典を信じているがゆえ、釈迦入滅1500年以後に悟りを開かないという言葉と矛盾するあなたの主張に質問を投げているのです >>107
「自我によるエゴ」を少し詳しく教えてくれますか?それは具体的にどんなことですか? >>108
あなたがその書物を信じているとなると、釈迦が入滅後1500年は悟りが開いてるということですよね?その悟りが開いているということは具体的にどういう意味ですか? >>109
やたらと自分のことや相手のことを考えて、ぐわぁ~となる要因のものです >>108
あと申し訳ないんですけど、わたしは伝聞の伝聞は信憑性が低いものとして証拠採用しないのですよ。
例えばあなたのその釈迦の言っていた言葉というものも、恐らく釈迦の側近の方が書いた文や書物なのでしょう。だとしてそれが長らく伝聞を繰り返されたのでしょうから、それは伝聞の伝聞として証拠としての信憑性は低いと思っているのが本音です。 >>111
自分のことを考えるのってのは欲ではないのですか?欲とはまた別なのですか? >>110
1500年以後悟りは開かれないので言葉として空などと語ることは出来てもそれ以前の悟りを知ることはできません
まずは最初の質問であるあなたが経典に依らず仏の言葉に依らず、何を縁起として悟りを開いたのか答えてください
このスレはあなたが質問するスレではなく、悟りを開いたあなたが質問や問題に答えるのですよね? >>114
何を縁起?悟りを開くために使った道具のことを書いてますか?
だとしたら宗教と心理学と社会学と理学と工学ですよ。 >>113
エゴイスト、エゴイズムのエゴです
欲とも言えますが、なんでも自分の思い通りにしたいという意思の働きです >>115-116
仏の言葉に依らない悟り、つまり縁覚道の悟りというわけですね
縁覚の者が十二因縁も語れずして何を以て悟りとするのか甚だ驚きですが
悟ったあなたであればご説明できますよね? なんか自分で勝手に悟ったって言い出すやつの名前あったよね >>117
何でも思い通りにしたいことは欲だと思いますよ。ひょっとするとそれも味わい尽くせば満足するのでは? >>118
12の因縁ってなんですか?あなたはそれで毎日の生活で困っていますか?
もしそうでなくてただ単に私を試したいと思っているのなら、その試している行動は、新訳聖書のキリスト教で言うところのパリサイ人と変わらないですよ。 >>122
経典や仏の教えを知らず悟ったというあなたはさしずめ聖書を知らないキリスト教徒といったところでしょうか >>123
それを言うならキリストはキリスト教徒ではないですし、釈迦は仏教徒ではないですよ。 >>120
なんでも自分の思い通りにしたいのなれの果てがプーチンやヒトラーなどの独裁者の所業だよ
行き着く先は破滅
わかる? >>124
釈迦は仏教徒ではないですが
悟りという概念を説明し道を説いた釈迦の教えが仏教ですよ
仏教なくして悟ったり悟りを説明することもできませんよ >>125
それも人を従わせたい欲═支配欲があってのものでしょう?
それに破滅かどうかは最終地点や生きるか死ぬかの場面で行動をどう変えるかで結果は変わると思いますよ。 >>16
オーパーツの存在理由もわかるんですか?
悟りとは、世の中悟ることなんて何もないってわかったら、悟りが開けたって事になると
坊主から聞いたことあるんだが。 >>127
最終地点や生きるか死ぬかの場面になるくらいなら、初めからそうしなきゃいいのにと思う
エゴは行き過ぎれば暴走して、相手や自分の身を滅ぼす危険な因子です >>126
あなたは人間の産み出した言葉は勿論、概念には限界があることをご存知ですか?つまりどんなに詳しく説明しても穴が生じます。だから実際科学の発展はなされてきましたしこれからも発展してきます。
一方であなたが仏教やその釈迦の言葉とやらには悟りの概念が完全に書かれていると思われるのはご自由ですが、残念ながらそれらに書かれている文字や絵だけではほんまの当時の概念は説明しきれないのですよ。 >>129
オーパーツというものが何か存じ上げませんが、「悟りが開けたから何もない」ということは、悟りが開けたからといって何か存在の様なものが見つかるわけではない、ということだと思いますよ。 >>130
最悪はそうなるという話ですので、そうならなくとも、そこまでなる前に行動と気持ちとの矛盾に気がつけば、以後行動と気持ちとを一致させて立ち直れる可能性はあると思いますよ。 慢(まん)とはサンスクリット語のMāna(マーナ)に由来し、仏教が教える煩悩のひとつである[1]。他人と比較して思い上がることを言う。慢は渇愛(タンハー)より生まれる[1]。 俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。
いずれにしても、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩をいう。
「私」という幻覚が生まれること自体が、慢の始まりなのである[1]。「私」という幻覚が生まれると以下のように、自分を標準として他人を判断するようになる[1]。 >>134
行動と気持ちを一致させる、それが理想だとしても、なかなかそういう機械のプログラミングのようにはうまくいかないのも人間だからね >>136
そうですか。できないのでしたら仕方ないですね。ですがどうやらそこに解決の鍵はありそうですよ。 >>137
ちょいと難易度は高そうです
出来るときもあれば出来ないときもある
という感じになるので >>138
もしかしてあなたの書くエゴって奴は、欲を満たすための気持ちのことを書いてるのですか? >>142
でしたらエゴに従ってみては?
つまりエゴイストになるってこと。 >>144
そうなるか否かは気持ちの変わりようで変わると思います。
変わらなければ確かに破滅する恐れはありますが、変われば破滅は免れる可能性が高いです。 >>145
それじゃ初めからエゴを追求しなきゃいいでしょと >>146
変わりたくても変われないから望まないことをしてしまうのでしょう。
人は基本怠惰ですから現状生きていけてるのならわざわざリスクを負ってまで変わろうとはしないのです。 >>147
変わる変わらないというか自分は
「一切は不完全だからしょうがないよ」
という諦めの見解を持つことかな
自分も相手もみんなも「一切は不完全だからしょうがないよ」なんだよね 訂正 : 自分にも相手にもみんなにも「一切は不完全だからしょうがないよ」なんだよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています