悲報 実在した宮本武蔵は卑怯者だった
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武蔵は一対一の約束に反して弟子四人を引き連れ巌流島に渡り、
決闘では武蔵は小次郎を仕留めることができず、
小次郎は武蔵の弟子らに撲殺された。
小次郎の弟子らは決闘の真相を知り、反感を抱いて武蔵を襲撃するが、
門司城に逃げ込み、城代沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びた。
『沼田家記』より コジローちゃんは死合を試合と勘違いして来たのかな?
しかもお風呂に入ってなかったらしいですね。いろんな意味で汚いです。 そういう説が出れば出るほど逆に小次郎の頭の悪さの方が際立ってくるな 当人が残した日記等でも誇張や創作があるのに
後世の奴が書いたのを事実と思い込むのはおかしい
三国志なんて殆ど嘘なのに どこもそんなもんだとおもうぞ
昔は負けたら次なんてないから どっちかというと「一対一で正々堂々」という価値観のほうが現実離れした考え方で、
「集団になる」ことや「権力に守ってもらう」ことはサバイバルにおいては普通に有効な戦略 >>11
孔明「伊藤」
周瑜「詩織」
孔明「…クククッ …www」
周瑜「ブフォッ www」 >>23
スポーツじゃないって事じゃないか
ヤクザが怖いのは大人が手段を選ばず集団で仕掛けてくるから怖い的な >>18
まだどういう意義があるか俺にはわからないけど
障害者の人生を描きたかったのかなんなのか井上は醜女の剣豪とか
今までタブー視されてたようなテーマに挑戦してる
ダメ人間の又八も単なる武蔵の引き立て役じゃなく、しっかり生き様を描いてる
簡単にダメ人間を否定する描き方じゃない >>23
武芸者同士の殺し合い
武士の間で武士道という思想が出始めてその中に
一対一で堂々試合せよみたいな考え方があって今までも残ってる おつうも単に「武蔵が性欲を克服してストイックに剣を極める」ことを
表現するための道具にはなってない
ちゃんとおつうの生き様も描いてる
ワンピースなんかだとサンジの引き立て役で正反対の考え方を持つ
コックが出てサンジに倒されてそれっきり登場しなかったりするけど井上はそうはしない 他のものをsageて好きなものをageるオタクってよくいるよね >>30
原作だと武蔵が性欲に負けた結果とんでもないことになってくけどなw >>34
そう。一応あれが元になってる
というか宮本武蔵自体、ほとんど記録が残ってない >>33
そうなのか
吉川版は読んでないけど五輪書は本屋でパラパラ立ち読みした
武蔵が女に振られて「諸行無常のことわりは…」とか言い訳し出したり面白かった >>33
山田風太郎の武蔵はとんでもないことになってくな >>35
比較的信頼性があるのが五輪書や沼田家記だけど
どれが史実かは学者の間でも意見が分かれてて不明らしいな 夢枕版の武蔵も面白い
バガボンドでは吉岡一派との決闘で百人斬りみたいなことやるけど
夢枕版は武蔵は刀を捨てて逃げる
重い刀を持った吉岡一派は誰も追いつけない >>48
実在はしたって説が有力
巌流島も現存するし石碑に当時彫ったと思われる記録が残ってる
武蔵は遅刻はしなかったようだ >>46
確か
宮本武蔵は本当に強かったのか、それとも兵法家?いやいや小説家w?
みたいな論争に吉川英治が巻き込まれて勢いで「剣豪だと思います」って言ったらしい
吉川英治「(やっべw、宮本武蔵ほとんど知らないのに適当な事言っちゃったwwせや!武蔵が大剣豪の小説書いたろwww)」
から始まったって聞いたことがある
一応各地に取材は行ったから少ないながらも記録はあるんだろけど 武蔵って二刀流のイメージだけど
当人が「二刀流とか実戦で使えたもんじゃねーからwww」って言っちゃってんじゃなかったか 武蔵の養子である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した
小倉の顕彰碑『小倉碑文』(1654年)によると、「岩流」は
「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刃の一撃」で
これを倒したとある。このときの武蔵の必殺の一撃は
「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。
また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
ウィキペディアより >>47
面白そう。バガボンドから五輪の書に進んで座禅体験に寺まで行く程度にハマったが今度は大帝の剣読んでみるわ >>55
これも身内が武蔵の死後書いたもんだし史実かどうかは怪しい どっかの老中になった伊織が大将だったから強かった
伊織が武蔵は強いと吹きまくった
だけ >>57
前半はやたら面白い小説だけど
後半夢枕獏が歳取ってから書いた部分が評判悪い 小倉碑文が怪しいなら沼田家記もバイアスかかってて怪しいけどな >>54
普通は両手で使うもんを片手で使うわけだから
はじかれたりしやすいし殺傷力も弱まる気がする
あずみだと武蔵は怪力って設定 舟島がある時期から巌流島と呼ばれるようになったことは間違いない
弟子待など決闘に由来する地名も残ってるし舟島で巌流と武蔵が決闘したのは多分史実
ただし小倉碑文は吉岡家との結末も盛ってるし武蔵の強さが記録通りだったかまではわからん 沼田家記の超上位互換の細川家記ですら超適当なこといっぱい書いてるからな 世界中の中世時代でも片手武器って鎧の発達とともに廃れていってるからな
片手で扱う剣じゃ殺せないくらいに鎧が進歩した
盾も片手で使うと、両手武器の攻撃を防御しきれない 確か失神した小次郎を窒息させて追い打ちかけた説をあるよね >>64
強いことは強くないと有名になるのも大変でなかなか弟子もできないし
万一、腕とは別の宣伝などの方法で有名になっても高確率でいどんできた武芸者などに殺される
一応は強かったんじゃないかな知らんけど 当時の剣客が師事するくらいだから強いことは強いんじゃないの
弱かったら弟子だって長年観察してると弱いと気づくと思う >>69
剣で名を遺した人なのは間違いないし弱いとは思わないよ
五輪書に自分で書いてるように60戦不敗とか吉岡一門を1人で全滅させたとかそんな突出した剣豪だったかはわからんというだけで 卑怯というより超実戦的な人に見える
形にこだわらないというか 強さを試す人も多かっただろうし
弱いままごまかし続けるのは無理な気がする 決闘の経緯は『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通りとなる。
武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。
最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。
その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。
そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。
この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。
宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために承応3年(1654年)に豊前国小倉藩(現北九州市小倉北区)手向山山頂に建立した顕彰碑文。
『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭(刀・槍・薙刀などの武具と弓矢)で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。同様に新免無二と吉岡家との足利義昭御前試合に関する逸話も他の史料になく、因縁を足利将軍家と絡めて描くことで物語性を高めるための創作の可能性がある。
福岡藩の二天一流師範、立花峯均が享保12年(1727年)に著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』にも、吉岡家との伝承が記されている。これを要約すると以下の通り。
清十郎との試合当日、武蔵は病になったと断りを入れたが、幾度も試合の要求が来た。竹輿に乗って試合場に到着した武蔵を出迎え、病気の具合を聞く為に覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で倒した。清十郎は後に回復したが、兵術を捨てて出家した。
伝七郎は洛外で五尺の木刀を用いて武蔵に立ち向かったが、木刀を奪われ撲殺された。
又七郎は、洛外下り松のあたりに鎗、薙刀や弓矢で武装した門人数百人を集めて出向いた。武蔵側にも十数人門人がおり、若武者の一人が武蔵の前に立つが弓矢で負傷した。これを見た武蔵は門人達を先に退却させ、自らが殿となって、数百人の敵を打払いつつ退却した。武蔵は寺に逃げ込み、寺伝いに退却し、行方をくらませた。与力同心がその場に駆けつけ、その場を収めた。
この事がきっかけで吉岡家は断絶した。 バガボンドの清十郎はかっこいい
遊郭で遊んでるだけに見えて影から吉岡の敵を殺してたという >>77
小倉碑文だと慶長9年に決闘し吉岡家は絶えたとなってるけど吉岡家は慶長19年に禁裏で事件を起こした記録があるんだよね 小説とかあんまり読まんけど
武蔵とか小次郎って弟子とか居ないイメージだった >>83
小次郎は巌流、武蔵は二天一流と円明流の開祖
巌流は失伝してるけどね >>62
五輪の書に「両手に刀持つのは筋トレと大勢に囲まれて立て籠もった時くらい」って書いてたらしい
五輪の書読んだことないから詳しいとこは知らんのだけど ガキの頃呼んだ児童文庫だと大刀で受けて小刀で刺すみたいに書いてたな
初めから盾持てよって思ったわw >>85
油小路で最後まで奮戦した隊士が二刀流でしぶとかったらしいから合ってるな >>86
ガンダムじゃないんだから普段から盾持ち歩かないだろ 大刀投げておどろいて受けてるとこに脇差し(と見せかけた2本目の大刀)で刺すんじゃないの 現代の剣道では二刀流は防御が強いという噂
そのためいろいろルールで縛り付けられてもう弱体化してやる人は少ない 沼田家記って巌流島の決闘から半世紀後くらいに編纂されたはずだけど
あんなもんで嘘をつく理由も分からんし一応事実と考えていいんじゃないか 百歩譲って筆者が嘘をつく気がなくても伝聞は正確には伝わらないぞ >>94
沼田家記は別に武蔵の事を記すの為の書物じゃなくてあくまで沼田家に有利になるように記述されてる物
その中で利害関係があるから武蔵や巌流島についても書いてる訳でバイアスかかりまくりよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています