「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の主語ってどれ?
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貫通式オナホで射精したら向こう側に精液が出たってことだろ? 例えば「餅が好き」とか言う
「餅」が主題
SVOの構文はない 違う
女はその雪国がどこにあるのかを聞いて欲しいの
そして一緒に行ってほしいの トンネルを抜けた場所を指すそこが主語になると思うなぁ トンネルを抜けるとトンネルを抜けたところは雪国だった 主語のそこを説明しているのが他のトンネル、抜ける、雪国でしょ?
これで地上の交通機関に乗って寒い地方に向かっている事や季節まで説明されている 英語に直せば分かる
When I passed through the tunnel, I found myself in a snowy country. 英語版では「列車はトンネルを通り抜け一面雪の世界に突入した」みたいな表現らしいよ 日本語の文の話をしてるのに「英語に直せば分かる」とか詭弁もいいところ >>20
雪国を英語にするなら雪の国じゃなくて雪景色って意味かと トンネルを抜ける
と
雪国だった
の2文
トンネルを抜けるのは、列車
雪国だったは、そこ >>20
実際に英訳版を書いたサイデンステッカーの翻訳は「The train came out of the long tunnel into the snow country.」 文脈を読むとか行間を読むみたいな事なので
主観的な表現の口語体である事を考えると「(私が)トンネルを抜けると〜」と理解するべきなのでは?
トンネルを抜けたのは「私が乗った列車」であり、一面の雪景色を観たのも「私」 >>35
サイデンステッカーはそう翻訳してるね
「汽車は長いトンネルを抜けて雪国に着いた」みたいになってる 主体は人称ではなく状況だから主語がないし、なくてもいい
日本語は主語がなくても文として成り立つ場合がある言語 雪国だった が述語?述部?だから そこ が主語でしょ 雪国がそこ(トンネルを抜けたところ)にあった 的な読み方もできる 列車がが隠れた主語で、抜けるとが述語なのね
たぶん 列車がトンネルを抜けるとが主部と考えればいいわけね
もういいや 私が汽車に乗って雪景色を見るためにはトンネルを抜ける必要があった >>53
2つの文なんじゃね?
列車がトンネルを通り抜けた
そこは雪国だった 日本人が英語できないのってこういうことなんだろうな
主語のない文章を簡単に表現できるから、ネイティブならニュアンスで理解できるけど非ネイティブにとってはロジカルじゃないからキツイ
日本人はロジカルでない文章の構築が良い日本語とされていて、ロジカルな英語が読み書きできない >>59
>日本人はロジカルでない文章の構築が良い日本語とされていて
こういう根拠不明の日本語論・日本人論もまた非科学的だと思うがね 列車が長い腟内(トンネル)に射精(だ)すと
そこは雪国に挿入(はいっ)ていた (M)[((S)列車が)/(O)トンネルを/(V)抜けると]/(S)そこは/(V)雪国だった >>64
言語相対論なんて鵜呑みにしない方がいいぞ 事実、日本語では、主語なしの形式が十分に可能である。
フランス語では、主体が非人称的なものであっても、形の上では明示される。
il fait froid.(訳注=天候について、周囲などが……寒い)と、j'ai froid.(訳注=自分の感覚として……寒い)は同じことではない。
日本語では、どちらの場合も「寒い」である。
そしてこうした日本語の文章では、寒さの感覚を持っている主体を決めることはできない。
寒さは大気中にも、また、それを感じる人間の中にも、同時にあり、この文章の情景全体に浸透していると言えよう。
(略)同様に、「怖い」=j'ai peur(訳注=私は恐怖心を抱く)と日本人の子どもが言う時、その恐怖は自分自身の抱く印象でもあれば、恐怖の対象が与える印象でもある。
むろん日本語も場合によっては、状況をより精密に言うことができる。
例えば、「体が冷えている」と言えば、寒さを感じているのは話し手の肉体だし、「空気が冷たい」と言えば、寒いのは空気である。
ただ、こうした表現より、「寒い」のほうがはるかに一般的である。
問題は(略)何故、対応するもっともふつうの言い回しに、この区別がないかである。
(略)こうしてみると、主語・述語というパターンも普遍的なものではないことが分かってくる。
『空間の日本文化』オギュスタン・ベルク(ちくま学芸文庫)pp.32-33
『雪国』の文も同じように、敢えて精密に区別しないように書いていて
もし、どうにか精密に区別しようとするなら
「列車に乗っている“私”が、トンネルを抜けるとそこは雪国だった」
「私の乗っている“列車”が、トンネルを抜けるとそこは雪国だった」となる
しかし実際には(日本語話者にとって)そんなぎこちない書きかたをせず私たちが自然に読める「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」と書いているわけで
この文から無理やり「主語らしき」ものを強いて選ぶなら「そこ」になるけどこれは単なる「(空間的な意味での)その場所」ではなくて
トンネルを抜けたという状況や、雪国の景色が広がっていたという状況と分かち難く結びついた「そこ」なわけだから
“私”も“列車”も“(空間的な)そこ”もが互いに相手を内包しあうことで生じる、ある共通の雰囲気に(私、列車、そこが)同時に参与している
だから主体は「(空間的な意味での)そこ」ではなく「(実存的な意味での)そこ」つまり「その状況」そのものなんだよ
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」の「そこ」は単なる場所を表現しているのではない
主語が「私」なのか「列車」なのか「(空間的な)そこ」なのかを精密に区別しない書き方だからこそ「認識主体/認識対象」を分断せず「認識主体=認識対象」という互いに融合した表現が可能になっている
これは文学的に深い味わいを生んでいるだけにとどまらず、近代合理主義が解決できずに抱えていた認識論における主観客観問題の乗り越えに関して実に示唆的で興味深いものにさえなっているといえよう 「そこは」ってのは入ってなかったのか
みんな間違って覚えててワロタ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています