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2024/01/31(水) 22:14:57.962ID:+pTs7a3jd武王は力があり、普段より力試しを好んでいた。そのため、力があるだけの任鄙や烏獲などの武将がみな大官に任じられた。
武王4年(紀元前307年)8月、洛陽を訪れた武王は孟賁という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って死去した。享年23。そのため、孟説は罪されて、一族は滅ぼされた。子がないままの急逝だったために後継者争いが起こったが、燕にいた異母弟の公子稷が即位した。これが昭襄王である。