世の中にランダムの要素ってあるの?
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サイコロ振ってなにがでるかは力加減とか角度とかテーブルの摩擦とかで決まってるけど、我々にはそれがわからないってだけだよね ランダムの要素ないなら運命は決まってるってことだよね >>3
その確率って我々人間には把握できてないってだけでは? >>7
把握できないならランダムってことでいいんじゃね? >>9
日常レベルではいいっちゃいいんだけども、運命はあるってことになるよね 力加減や角度で決まってるけど
急に机をガンッと蹴ってくる奴が来る可能性あるからランダム ランダムな要素がないなら、未来が永遠に続く(あるいは気が遠くなるくらいとても長くでもいい)とすると
すべての素粒子の挙動が行列か集合で「情報」としてどこかに記憶されていなくてはならなくない?
それ宇宙のどこにあるかって話。 無限の容量のデータベースがこの世のどこに存在するか? >>11
あったとしても認識できなければ無いのと一緒じゃね? 世界はただのピタゴラスイッチってことだよね
人間だって複雑な機械なわけだし
自由意思にみえてただ定められた道筋をなぞってるだけ ありまくりだけど大抵は収束するからないのと同じだね >>14
そんなことはなくない?
なんで記録されてることがひつようになるの? >>19
次の一手が決まっているならあらかじめ方程式か数列がないとだめじゃん?
その情報をどこに持っているかという話だよ。 >>16
もちろん無いのと一緒
どっちにしろ我々の普段の行動に影響はないけど不慮の事故とか起きたときに無駄な後悔はしなくてよくなるかも 自分の命日を今日にするかどうか選択できるのは定められた道筋とは言えなくない? サイコロ振って出る目は1/6
でも実際は軽い面と重い面があるから確率は違うよね
まあ人間が言う確率ってそんなもん >>20
そんなの必要ないでしょ
世界には物理法則があるわけだから
それ以外はいらん >>25
すべての素粒子の挙動を表せる数式があったとして、それの情報量としての大きさは考慮しないと
無限に長い数式が存在すると仮定する仮説の提唱なのかい? >>23
今日とする選択するとするじゃん
でも判断したってのはそれはつきつめると結局脳内の物質の移動によるもの
もしその移動にランダム要素がなくピタゴラスイッチのようにあらかじめ決まっていたのならそう判断すること自体が避けようのないことだったってなる気がする 最近ラプラスの悪魔を知ったんだろうけどとっくに否定されてるから >>27
素粒子の挙動は物理法則によるんじゃないの
あらかじめプログラミングしておく必要はないじゃん いや、法則ってプログラミングそのものでしょ。世界の規定だからさ。
それを人間が見出しているだけで。 完璧に正確な測定は不可能
完璧に同じ条件の粒子でも振る舞いが確率で変化して確定的な予測ができない
予測は光の速さを超えられないから >>32
そう、世界には物理法則がある
すべて物質法則に沿って動いてる
そこにランダム要素がないなら世界の最初から最後まですべて決まってるってことになるよね >>34
量子力学の世界では不可能とされてるから量子力学に変わる新たな理論を確立させなきゃ だからさ、すべてを規定する法則(=数式でいいといしようか?)を演算して宇宙を動かすのにかかる時間は?
有限じゃないの?それをどう処理できるかって話だよ。 ./ ニYニヽ
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素粒子の正確な位置と速度を同時に決定する事だとさ >>1は量子力学を包含しつつ超越した新理論をもっている風だから「論破してみて」と提案した。 >>42
別にそんなの不可能でも本筋に関係ないのでは >>45
関係あるだろ
ランダム要素はないって前提が崩れる あらかたは「でたらめ」に動いている面もあるからでしょ?
法則が有限でないと宇宙(を存在せしめているメタを考えてもいい)は動かしきれないでしょ。 >>46
良くわからん
測定できないこととランダムであることはイコールではないのでは? >>48
ただの妄想にしかならないが妄想するだけ? カズレーザーの番組でやってたけど運命は決まってないって言ってた そもそもまったく同じ条件というのがありえない
時間が進んでいるから みんな測定できないことをランダムだと思ってるんだな この世は「光速で動いている量子コンピュータ内のシミュレーション」とでも考えない限り説明がつかない
ところまでは来ていると思う。 まーた弱者が自分の出来が悪いのを責任転嫁してるのか 「これがこう動くことは事前に決まっている」という前提がそもそも存在しない
それが証明できれば物理学の不確実性原理とか量子力学の確率性が根底から覆る >>54が真理かどうかはわからんけどそうでないなら何なのよ?の何が求まらない。 オナラをしようとした時にオナラが出るかうんこが出るかはランダムだと思う 分からないものを分からないままにしておいて論をすすめるのが今の量子力学のげんかいではあるね。 >>5
プログラムで生成するランダムの値は時間という数値を元にランダムっぽい値を出してるだけで厳密にはランダムではなかったと思う 今よりも科学が発展して全宇宙のあらゆる物理量が測定できるようになったら未来のことを完璧にシミュレーションできるようになるのでは?って疑問は当然科学者も持ってる
ただ現在の研究では素粒子の振る舞いに完全なランダムの要素があるってわかってきたから未来予知は不可能って結論になってる でたらめと思われていたブラウン運動に式を与えた人もいるし、今後はどう説明されるかは分からんでしょ? いづれランダムさの程度は低くなっていくだろうね。究極的には>>1の言っていることに近づくんだよ >>68
あらゆる科学的事実はすべて暫定的なものであり数百年後に覆るかもしれない、という意味ならそうだけど
不確定性原理は他の科学的事実が正しいのと同じレベルでその正しさが実証されているものだよ
君の言う「まだ決まっていない」は一体どちらの意味でそう言ったのかな? 宇宙の端にある星と俺たちの体のあいだにも極めて小さい引力が発生しているが
宇宙は光速を超えて膨張しているので宇宙の端を観測できない
カオス理論的にもこの程度の変数でとてつもない違いが生まれる >>69
ブラウン運動の式は「確率的な動き」についてのものだから、それこそ「これがこう動くとは事前に決まってない確率的なものだ」ということが定式的に証明された一例だよね >>74
そうなんですよ。どこまでいっても確率的要素を排除できない現状の閉塞状態に対する挑戦的意識、という意味で
俺は何らかのbreakthroughが今後数百年のスパンで出るだろうという期待はしてるけど
自分がその一端を担うほどの貢献はたぶんできないと感じてはいる
正直ちょっと死にたい >>73
そうだよね
だから、ある要素の不確定性がより小さくなっていっても、ほんの小さな「確率的なゆらぎ」が結果としての諸現象に大きな違いを生じさせるので
>>35のような「世界の最初から最後まですべて決まってる」という風になることはない 難しいな
微小な世界まで考えた時にはランダムではなく、人間がそれを認識できないだけってことか 俺がジャンケンで次に何を出すかってのはお前らにとってはランダムにしかならんよ >>77
「人間がそれを認識できないだけ(技術的な問題)」ではなくて「確率的な不確定性がある(原理的な問題)」ということ >>76
サイコロみたいに自分たちが観測できる事象だと確率の収束が大きくなるから、同じ動きで投げれば同じ目が出てるように見えるだけで
もっと小さい世界だと全然収束しないから「確率で決まるって仕様がそもそも世界に組み込まれてるんじゃね?」ってのが今の量子力学の考えだと思う 決定論や因果論を考える上でも局所性と非局所性という違いを考慮する必要があるよ 「サイコロ振ってなにがでるかは力加減とか角度とかテーブルの摩擦とかで決まってる」っていうのは古典的な局所的決定論であり因果論だよね
ベルの不等式の破れの実証から分かるように現代では非局所的決定論を考える必要性がかなりあることが知られてる 「かなり」を挿入したのは超決定論という抜け道があるからなんだけど、それはタイムスケールをビッグバンまで引き伸ばした考え方だから、実験が行われる限られた時間の中だけで考えるならたしかに非局所性のある現象が生じているといえる そもそも決定論には反証可能性がないから>>1の言ってることを完全に論破することはそもそも不可能だよ >>86
>そもそも決定論には反証可能性がないから
つまり「科学的に論じることが出来ない」もっと言えば「決定論とは非科学的な話」であるということだよね
論破することが不可能なのは「正しいから」ではなく、それが「無意味(真偽判定不能)な問い」だからというわけだ >>86
サイコロがどうとかの物理学的な話だけをするからそうなるというだけの話 >>88
決定論が真であること判定できる可能性はあるとおもうけど、偽であることを判定するのは難しいんじゃないかな? 反証不可能だからといって非科学的だとはあまり思わないけど 哲学的な決定論的な世界観の話なのか、古典力学とかの科学的な意味での決定論なのかで変わるけど
古典的科学の決定論は量子力学において因果関係が曖昧であることから決定論的な法則が完全には適用できないことが示されてる >>91
反証不可能であれば、どのような結果が出ても(これは最初から決定していたことなのだと)都合よく解釈できるので科学的だとは言えない >>92
まあそうだよね
去年のノーベル物理学賞はそれ関連だったし、古典論の破れは抜け穴が埋められて認められたといえる
>>93
無根拠に断定するならそうかもしれんけど、予め決定されていた可能性があると常に考えられること自体は別に非科学的ではなくないか >>90
真であることが判定できる可能性があるなら、偽であることが判定できる可能性もあるよね
まあ「偽であることを判定するのは難しいんじゃないかな?」ということは、偽であると判定できる可能性がないとは言ってないわけだからそれでいいんだけど
それだと>>86で「そもそも決定論には反証可能性がないから」というのは間違いだったことになる >>94
反証可能性があって「予め決定されていた可能性があると常に考えられること」を科学的に検証することは可能だけど
反証可能性がなくて「予め決定されていた可能性があると常に考えられること」は科学的に検証することが不可能だから
科学ではなく宗教や哲学として考えるしかない >>95
一般的には真であることの判定可能性と偽であることの判定可能性は独立だと思うから、「真であることが判定できる可能性があるなら、偽であることが判定できる可能性もある」とは必ずしも言えないと思うが >>97
一般的に、真であることの判定可能性と偽であることの判定可能性は独立ではないよ >>98
反証不可能でも実証は可能っていうのが受け入れられないってこと? >>100
「真であることが判定できる可能性があるなら、偽であることが判定できる可能性もある」ということ
どちらか一方のみが可能であるなんてことはない
判定の結果、真偽が確定したならどちらかの可能性は完全に否定されるわけだけど
このことがまさに「真であることの判定可能性と偽であることの判定可能性は独立ではない」ことを示している >>101
判定というより実証と言ったほうがよかったかな
反証不可能だけど実証可能ではあるから無意味(真偽判定不能)ではないと思うということが言いたかったんだよね >>102
>反証不可能だけど実証可能ではあるから
反証不可能なら実証も不可能だからね
反証可能とか反証不可能という意味を何か勘違いしてない?
例えば「1+1=2」であることが証明されたら、このことの反証可能性は無くなると思ってるのかな? >>104
反証不可能なら実証も不可能であることの根拠はなに?
俺は反証可能性は単純に反証(偽であることの証明)が可能であるという意味で使っているよ
一般にある理論においてある命題の証明と反証が両方可能であることは可能であるとは思うから「1+1=2」についても同様だけど、反証可能性をカール・ポパー的な意味で「経験的検証により論理的に否定可能であること」という意味で使うなら「1+1=2」が反証可能であるかどうかは微妙なところだと思う 俺のこのスレでの主張は、非局所的隠れた変数理論による決定論が発見される余地はベルの不等式の破れの実証を経た現在でも残されているという意味で決定論が実証される可能性はあるとは思うけど、逆に決定論が否定される可能性は究極的には無いとも思うということ。あと、そのように実証可能性がありかつ反証不可能な言明は無意味(真偽判定不能)ではないし、非科学的というのも必ずしも適切ではないということもね >>107
反証(偽であることの証明)が可能であるなら、その可能性を(論理的推論であれ実験であれ)試してみて偽であることが証明できなかったとき、これは真であると証明されたことになる
つまり反証が可能なら証明(実証)が可能ということ
証明と反証は同じコインの裏表のように分かち難く結びついているから反証が不可能であるとき証明(実証)も不可能であるし
反証が可能であるなら証明(実証)も可能だといえる
証明(実証)と反証は裏腹の関係にあるので独立してどちらか一方のみが成立してることはない
例えば「私は(生物学的な)男である」という事柄の真偽に反証可能性があるとするなら
それは私の細胞から性染色体を採取し、性染色体が「XX型である」かどうかを確かめることが可能だ、というのが反証可能性に該当する(ヒトの性染色体はXXかXYしかない)
そしてもし実際にXXであったなら反証されたということになるが、これはもし「XXでない(つまりXYである)」だったとしたら「私は男である」が真であったという証明(実証)にもなっており
反証可能性(「XXである」を確かめることができる)があるということは同時に証明可能性(「XXでない=XYである」を確かめることができる)ということにもなるので
反証可能性があるなら証明可能性もあるし、反証可能性がない(「XXである=XYではない」を確かめられない)なら証明可能性もない(「XXではない=XYである」を確かめられない)
生物学的な「男/女」のように「決定論/非決定論」も、ある一方の真偽が定まれば同時にもう一方の真偽も定まる
これは反証可能性(「偽である」と確かめる方法がある)があるなら、その方法で確かめてみて「偽である」という結果が出なかったのなら真であると証明されたことになるので証明可能性もあることを示している
また反証可能性(「偽である」と確かめる方法)がないなら、それを真であると確かめる方法もない(証明可能性がない)ことになる
決定論が偽であると証明する方法(反証可能性)がないのに、真であることを証明する方法(実証可能性)があるなんて事態はありえないんだ >>109
なるほどね
君の考えてることわかったよ サイコロの例は、我々にはわからないだけで、決まった法則に従って結果が出ると考える人もいます。しかし、その法則が何であるかを完全に理解するのは難しいでしょう。また、法則があっても、その法則を完全にコントロールすることはできないため、ランダムな要素があると考えることもできます。
そもそも、ランダムとは何かを定義することは難しいものです。ある人は、完全に予測できないものをランダムと考えるかもしれませんが、別の人は、ある程度の予測はできても、完全にはできないものをランダムと考えるかもしれません。
また、ランダムと予測可能性は、相反するものではありません。ある程度の予測可能性があるものでも、ランダムな要素を持つことは可能です。例えば、サイコロを振ったとき、1から6のいずれかが出る確率は同じなので、ある程度の予測可能性があります。しかし、それでも、どの目が出るかを完全に予測することはできません。
このように、世の中にランダムの要素があるかどうかは、ランダムの定義や、予測可能性との関連性などによって、さまざまな見方ができます。
個人的には、世の中にはランダムの要素が存在すると考えます。例えば、自然現象は、複雑な法則によって支配されていますが、その法則を完全に理解することはできません。また、人の行動も、遺伝や環境などのさまざまな要因によって影響を受けていますが、その要因をすべてコントロールすることはできません。
このように、世の中には、我々が完全に理解できない、またはコントロールできない要素が存在すると考えます。それらをランダムな要素と呼ぶことができるのではないでしょうか。 我々が観測できるとかコントロールできるとかは関係なく、単純に物理法則にはランダムの要素があるのかないのか
実現できるかは無視して、ある実験を素粒子レベルまでなにからなにまで同じ条件で検証して結果が異なるということがあり得るのか
異なることがありえるのならば未来は決まっていない
あり得ないのならば未来は決まっている
決まっているからといってもちろん我々にそれを知る術はない >>109
なんか色々と突っ込みどころがあってどこから手を付けていいかわからないけど
まず「偽であることが証明できなかったとき、これは真であると証明されたことになる」は明らかにおかしいね。
“Absence of Evidence does not mean Evidence of Absence”, by Dr Carl Sagan
「証拠の不在は不在の証拠を意味しない」 カール・セーガン
と類比的に、証明の不在は偽の証明ではない
偽であることの証明が不可能であることは真であることの証明を含意していない >>113
それも結局、少なくとも局所実在論を含む古典論の範疇では「ある実験を素粒子レベルまでなにからなにまで同じ条件で検証して結果が異なるということがあり得る」ということが実証されてしまったんだよね
それが去年のノーベル物理学賞で認められたよ >>114
>「偽であることが証明できなかったとき、これは真であると証明されたことになる」は明らかにおかしいね
単に「偽であることが証明できなかったとき」とは書いてないよ
109では、反証可能性(「偽である」と確かめる方法がある)があるなら、その方法で確かめてみて「偽である」という結果が出なかったのなら
と書いてある、単に「偽であることが証明できなかったとき」とは意味が全然違う
やっぱり君は反証可能性という言葉の意味を理解できてないよね
この方法で確かめてみたとき結果がこのようになれば、これは確実に偽であることが確定するという意味だから
もしこの方法(偽であるかどうかを確定させる方法)で試してみて「その結果が偽でないならそれは真である」が正しい
>「証拠の不在は不在の証拠を意味しない」 カール・セーガン
この類比は的外れだよ単に「証拠が不在」なのでなく「このやり方で試した時にこの結果が出たなら確実に偽(不在の証拠)だと確定するという方法があるとき(つまり反証可能性があるとき)にこの方法で試して証拠が不在であればそれは不在であることの証拠になる」ということだからね
単に「確認してみて証拠が出なかった(証拠の不在)」というのは反証可能性でも何でもない
>偽であることの証明が不可能であることは真であることの証明を含意していない
そんなこと書いてなくて
どのような方法で確かめても偽であることの証明が不可能(反証可能性がない)なら、真であることの証明も不可能(実証可能性もない)ということなんだけど
理解できてるかな?
「偽であるかどうか証明できないからこれは真だ」とは書いてなくて「偽であるかどうか証明する方法がないなら真であるかどうかを証明する方法もない」という意味であり
これは同時に「真であるかどうかを証明できる方法があるなら偽であるかどうかも証明する方法がある」ということでもある >>117
うーん、君の言っている反証可能性って真偽判定可能性って意味であってカール・ポパーのいう科学哲学用語としての反証可能性でも証明論上の反証可能性でもないのでは?書いてることからそうとしか思えない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています