釈迦って性欲とかはあるの?
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腰へコオナニーやめたいんだけど釈迦はどうやって腰へコオナニーから抜け出せたの?俺も真似したい じゃぁ釈迦は腰へコオナニーどころかおまんこぺろぺろガチアクメ本気パンパンビュルビャル♡もしたってのかよ! つまり俺も枯れるまで腰へコしてたら額にへんなイボができるのか?もしかしてあれニキビ? バラモン(インドの最高位の僧侶)が釈迦を自分の娘を婿にしたいと迫った際の名言
われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という3人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ
(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫・中村元翻訳) つまり
釈迦「俺は欲望の限りつくして腰ヘコ射精で気持ちよくなったけど悟りにはなれないからやめた方がいいよ」ってこと?!
不幸風自慢のマウント腰へコじゃん マジレスすると瞑想のサマーディの恍惚感はオナニーやセックスの比ではないと思う
たかだが欲望で追及できるレベルの快楽は限度が知れている いや、サマーディは難しいけど珍しい話でもなさそうだな
究竟涅槃と呼んだ方がいいか
もちろん釈迦は快楽主義者ではないんだけどさ >>22
サマーディはともかく、涅槃は同列に扱っていいものではなかった
自戒を込めて偽涅槃のウィキペディアの情報を貼っておきます
偽涅槃(にせねはん、英:pseudo-nirvana)は、仏教の瞑想の段階の1つ。坐禅や止観など仏教の瞑想修行を重ねている途中で、幸福感、恍惚感、解放感、万能感、天地との一体感などを体感する状態のこと。
その状態から涅槃(悟りの境地)と間違えられるケースが多く、そこから偽涅槃と呼ばれる。
一度経験すると執着するようになり、また、悟りの境地と錯覚して得意満面となってしまう。その結果、そこから先の段階に進まずに止まってしまうことが多い。 社会的承認はセックス以上の快楽と言われている
つまり救世主オナニーこそ至高 つまり新興宗教のトップは生粋のオナニストだったのか… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています