1982 私立静岡学園高校を8ヵ月で中退しブラジルに一人で渡航
1982 ジュベントスに所属 指導者にプロになれないと見られていた
1984 キンゼ・デ・ジャウーへ移籍
1986 サンパウロ州選手権(U-21)に日本人初出場
1986 2月、サントスFCと自身初のプロ契約(ドゥンガとチームメイトに)
1986 4月、デビュー戦でドゥンガに怒られる
1986 5月、パルメイラスと特別契約。キリンカップに出場
1986 サントスでの出場は2試合のみ
1986 マツバラへレンタル
1987 マツバラと正式契約、南部3州リーグ優勝
1987 クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)へ移籍
1987 ブラジル全国選手権に日本人初出場、「日本のガリンシャ」と呼ばれ注目される
1988 キンゼ・デ・ジャウーへ移籍
1988 コリンチャンス戦でリーグ日本人初得点、大金星、ブラジル全土中継だったため名前が全国へ知れる
1988 サッカー専門誌「プラカー」の年間ポジション別ランキングで左ウィング第3位に選ばれる
1988 ジャウー市の名誉市民賞を貰う
1989 コリチーバへ移籍、パラナ州選手権優勝。このころ三浦の知らない間に40万ドルでのセリエAコモへの移籍話が進んでいた。
1990 サントス復帰、レギュラーとなる。パルメイラス戦で1得点1アシストしプラガーの表紙を飾る
1990 代表へ選考されやすくなるために日本でのプレーを決断。ヴェルディへ移籍。
1993 アメリカW杯予選、第1戦サウジアラビア0-0、第2戦イラン1-2で勝点1、6カ国中最下位だったが、第3戦北朝鮮で1G1A
1993 北朝鮮戦の翌日の現地新聞「ガルフ・タイムズ」にイギリス人記者が執筆『KING KAZU』の大見出しが付く
1994 <移籍を認めないナベツネ>が1年間のレンタルという条件をつけて了承しジェノアへ移籍する
    移籍会見ではスポンサー狙いではないかと質問されるが会長が三浦に魅力を感じた事と両方が理由
1994 デビュー戦で先発出場、バレージと激突し鼻骨と眼窩神経を損傷、一か月の戦線離脱
1994 サンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場し初ゴール。次節でアシストと調子をあげつつあったが
    代表戦のため降格プレーオフに出場しなかったこと、アジア大会へ出場したこと、3度の監督交代などの影響で、1ゴールのみに終わる
1995 トリノ、スポルティングCP(スポルティング・リスボン)からオファーが来ていたが、前述の馬鹿のせいでヴェルディへ復帰
1995 ジェノヴァ市から特別表彰を受ける。三浦の在籍によってイタリア人の日本サッカーに対する概念が変化した。
1997 W杯最終予選韓国戦でチェヨンイル(崔英一:後の大韓サッカー協会副会長)から汚いファウルをを受けて尾てい骨を骨折、以後不調に陥る
1998 自身の不調と共にヴェルディも下位に沈む。読売新聞が撤退し、経営縮小のために契約を実質解除される。
1999 2年契約でディナモ・ザグレブへ移籍、当時の大統領の意向が働いたと言われる。ユーリッチのサッカーへの取り組みと考え方に影響を受ける
1999 ザグレブがクロアチアリーグ優勝。シーズン終了後にアルディレスが就任。戦力外とされる
1999 欧州クラブとの交渉がまとまらず京都サンガへ移籍
2000 京都が降格しゼロ円提示を受ける
2001 西のカズこと永島昭浩が引退した神戸へ移籍、この年から4年間キャプテンを勤める。シーズン11ゴール。
2002 フル出場が減り始める。2ndステージで臀部のケガのために長期離脱
2003 交代要員になる
2004 エムボマ、平瀬が加入。シーズン終盤にスタメンになる。播戸を一生懸命育てる。この時期から小学校への訪問授業を開始し現在も続けている。
2005 3試合連続ゴールなど好調。チームは低迷しエメルソン・レオンが辞任。チーム構想からはずれ退団。