江戸時代という地獄「他県に行ったら死刑」「絹製品着たら死刑」「殿様に意見言ったら死刑」「刑罰は連座制」「飢饉は放置」
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連帯責任の五人組制のせいで周りの顔を窺う人間性になった >>6
出作り(地元に田畑が痩せすぎてるので遠くに住み着いて農耕する)
口減らし
東北を出る事も出来ないし江戸時代の東北はマジ地獄 >>9
遠くの田畑に一時的に住み込んで農耕、の間違い 最高刑が死刑ってだけで自動的に死刑になったわけじゃない
飢饉はそれなりに支援した
支援しなくて餓死者でまくりだと幕府ににらまれるからな 柄物の服着たり木綿以外の鼻緒の下駄履いたら贅沢罪で罰
世界有数の大都会の江戸でも隙間風の吹く木と紙で出来た長屋暮らしが一般的
マジで異常すぎるよ
侘び寂びだの清貧とかいう言葉で洗脳してただけ 吉田松陰
長州藩の手続き待ってたら御同輩との旅行日程に間に合わなくなると言って脱藩して旅行を決行、帰ってきたら重めの処分を受ける
ペリーが浦賀に来たの見て黒船に乗船して外国を見て回りたくなり乗り込もうとしたが拒否される、藩で重めの処分を受ける
幕府が勝手に日米条約締結した事に激怒して倒幕を画策して失敗、投獄される
投獄中に老中暗殺計画を勝手に自白して死刑宣告される、享年30歳
松下村塾の主宰者 飢饉の時だと身内が死んだら近所が嗅ぎ付けて片足でも貸してくれって言ってくるような時代だからな 他県どころか夜に出歩く奴は問答無用で悪人だからな
長屋毎に門と門番が居て夜出歩く時は何しに行くのか納得出来る理由を言えなきゃ外出も出来なかった 江戸時代の罪人の扱い見てたら、江戸時代なんて到底美化できるもんじゃないのは分かるよ
しかもこれで捜査は基本的に竹棒で叩いて自白強要だけなんだから
>牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限のおよばない世界であった。また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかった。
食事は1日朝夕の2度。玄米5合(女囚は3合)と汁物が支給された。漬物は牢内でこしらえていた。
牢内の人員が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた。
主に牢内の規律を乱す者、元岡っ引や目明し、いびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などが標的にされ、死亡時には「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった。
牢獄には窓がなかったため、風通しも悪く日光も入ってこなかった。栄養状態も悪くトイレも牢内にあったため、内部の環境は非常に劣悪であった。医師はいたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火や疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者は溜に収容された。高野長英のように腕の良い医師が入獄して牢内の環境改善をして牢名主にまでなった例も有るが、滅多にある事では無かった。 所持品検査が終わると、いよいよ雑居の牢入りです。このとき、裸のまま衣類を抱えているのですが、先輩格の囚人からあらかた取り上げられ、衣類1つ頭からかぶせて座らされます。
そこで、娑婆でどんな犯罪をしたのかを聞かれたあと、「命の蔓(つる)を持ってきたか」と尋ねられます。
「命の蔓」とはお金のこと。ここで新入りは、帯などの縫い目に隠していたお金を差し出します。その額が10両を超えれば優遇されるのですが、一文無しだと悲惨です。
「おまえは、すってんてんで来て、ここをどこだと思っているのか」などと説教を受けてから、縄で縛り上げられ、板や棒で叩かれるのです。そのまま落間に転がされ、翌朝熱病人のいるスペースに放置。
感染して死ななければ、牢屋敷への通過儀礼にひとまずパスしたことになります。
岡っ引が罪を犯して入牢すると、牢名主の指示のもと、縛って板切れで毎朝叩きます。これを10日間続けた後、「陰嚢蹴り」で陰嚢を潰してとどめを刺してしまうのです。
また、入牢者が増え過ぎて、すし詰め状態になったときは、平の囚人の中から適当に数人を選んで、板で叩いて陰嚢蹴りで殺しました。これを3日おきの間隔で繰り返し、人口調節をはかったわけです。
死刑の方が良くね? >>24
だよ
抱かれた女はその後どうなるかお察し >>27
手形をもらって行く分には問題ないけど、貰わずに行くのは重罪 >>20
長屋ごとって藩邸の中にある長屋じゃなくて?
さすがに町人用の長屋は数が多すぎるでしょ >>1
明治維新で死刑が激減したからな
明治後半には現在と同レベルの少なさになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています