反出生主義ってさ
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「自分が苦しい」という個人の感覚を
「誰にとってもそう」と一般化した上で「だから一律子供を産むな」と主張してるわけで
「個人の感覚の一般化」っていう詭弁でしかないハイ論破、で片付くんじゃないの? 誰でもじゃなく誰でもそうなる可能性があるから自分の子供だって当然地獄を見る可能性があるから作らないほうが良いという考えでしょ なんで人生楽しい人も一律生まれてこないほうがいいんだ 人生って苦しいだけのもんじゃないだろ
楽しさもある >>2
今生きてたらこれから多大に苦しむ可能性があるんだから今すぐ死んだ方がいいじゃんね
自殺しない時点で矛盾してる >>5
産まれたら必ず人生楽しい保障がないからでしょ >>1
その通りだよ
そもそもまともな人は相手にしてない子供の癇癪みたいな理屈だし >>7
自殺するのも怖いじゃんこれ産まれたから味わう死の恐怖ね 自分の人生だけ否定するならまだいいが
なんですべての人の人生を一律なくそうとすんの レス欲しいからってこういう荒れる話題出すのやめろよ >>13
論を出せなくなったら罵倒に走るあたりいかにも頭弱くていいね >>14
すべてじゃなくて地獄を見る可能性はあるでしょ全員
君が今日強盗に襲われて八つ裂きにされる可能性もあるわけで >>16
自己紹介を付けちゃうのはギャグ?天然?w >>14
この世から幸福諸共不幸を全て抹消するためよ 俺は人生楽しいんだけどなんで俺まで生まれてこないことを
強要されるんだよあほくさ >>20
もうお前は産まれてるんだからどううでもいいでしょ >>18
文脈関係ない定型文は脳みそ使わないから
知恵遅れの常とう手段だよね
話にならんからお前はあぼーんだな これだけ頭が弱いと他人に負けっぱなしで人生苦しいだろうなあ
かわいそうだな なんでVIPに反出生主義のスレ立つの
どこの馬鹿が立ててるんだ >>2
自分がそう思って子供を作らないのはいいんだよ
作らないのを押しつける訳だから始末が悪い そもそも「主義」を他人に押し付けようとするところがおかしい
主義って単なる個人の信条だから >>27
「反出生主義」っていう日本語訳がおかしいんだよな
「反出生論」と呼ぶべき 怪我をするかもしれないから子供は外に出さない方が良いみたいな話を突き詰めた低レベルの話だよ >>28
そもそも論なのか?
俺が苦しいからみんな生まれるべきじゃないって
筋道が通ってないぞ だとするともし産まれた子供がハッピーな人生を歩んでしまった場合反出生主義者は殺人鬼って事になるね 俺は単に一種の自然淘汰だと思う
不幸な人生しか歩めない能力が低い人がハマって子孫を残さないでくれている訳だから 今日も誰も論破できなかったな
まあ哲学者ですら無理なんだから当然だけども まあ世の中のリソースは変わらないから反出生主義者が生まなかった分空いたリソースを使って出生主義者が多く生むようになるだけなんだよね ただの生物的弱者の主張だろ
反出生主義者は地球上から淘汰される
それだけ >>36
それなら少子化は進まないはずなんだけどな >>37
いずれ淘汰されるなら初めから発生しないはずなんだけどな >>39
突然変異は起きる
だが環境に適応してないので淘汰される >>39
お前の主張が正しいなら地球上から絶滅した種は存在しないということになるが? >>12
いや遅かれ早かれ死ぬことは確定してるのに先延ばししてなんかメリットある?
生きれば生きるほど不幸になるんだろ?なんで死なないの?アホすぎでしょ >>39
むしろなかなか淘汰されないから自分で手を下してる感 >>40
でも「反出生主義」というミームは生き残ってるよね >>41
それは地球環境の変化に適応できなかったからだよね
反出生主義を絶滅に追いやる環境変化って何だろう >>44
まあ共産主義者やテロリストみたいなもんだな
ゼロにはならない >>46
じゃあ地球上から淘汰されるってのは嘘だったね >>2
たしかに君の子供に産まれたら地獄だろうけど他の人は普通に幸せに生きてるしそれなりに人生楽しんでるよ?
何で自分の人生が地獄だと他人も地獄に違いない!って思考になるの? >>1
実際そうだと思うぞ
統計的にみても反証なんかいっぱい出てくるだろうしお気持ち一般化以外にできることがそもそもない まぁ反出生主義者の大半はDQN家庭の被虐待児とかだろうからそうなってしまうのも分かるけどね
そんなのは極一部なので他人に思想を押し付けないで欲しいね 反・反出生主義者ってお約束のように憶測による人格攻撃に走るよね
まあ真っ向から反論できないから仕方ないんだろうけど そもそも反出生主義が「生きることは不幸に決まってる!」って憶測100%が原動力だし 人に人生を押し付けてるのは紛れもなく出生主義者なんだよ
子供に勝手に命を持たせて人生を歩ませる
必ず死ぬ運命、死ぬまでの苦痛を無視して「生きるって素敵」みたいなお気楽な希望論振りかざして責任逃れ
まずは素直に自分のエゴで作りましたって認めような 反出生主義者も「生きることは不幸に決まってる!」とまでは言ってないんだよね
「幸せだろうが不幸だろうが生まれないことに越したことはない」と言ってるだけで >>55
それは1人ひとりが「自分の分だけ」判断すれば良いこと そもそも苦しいとなぜ生まれないほうがいいのかがわからん 苦しいのも傷つくのも楽しいのもすべて人生の醍醐味だろ
なんでそれが生まれないほうがいいって結論につながるのか意味不明 その行為の影響の及ぶ対象が行為者本人だけなら「個人の自由」で済む話だけど
出産という行為はそうではないからね >>55
言葉の強さが問題なら言い換えよう
生まれないに越したことはないってのはつまり「人生の総和は必ずマイナスである」って断定に等しい いい家庭に産まれて恵まれて育っていいパートナーと巡り会えたのなら産めばいいんじゃない?
反出生主義でも全ての人類は子どもを産み落とすな!とは言ってないでしょ?知らんけど >>60
苦痛の大きさをマイナスで表すなら当然そうなるね
>>61
それは反出生主義ではなく優生思想だね
反出生主義は環境の良し悪しに関わらず子供を作るべきではないとする主張だよ まず子供を作るべきではないと主張する根拠がわからん >>63
夢も希望もなくうすらぼんやり死にたいと常に思ってる奴が次の世代作りたいと思うか?って話じゃないの >>64
そりゃ単なるニヒリストが自分の人生観を一般化してるだけだな
なんで人生楽しい奴まで生まれないようにするんだよ 個人的なそれと人類のせいでこれだけ生態系にダメージ与えてるからいない方がいいと言うタイプに分かれるよな >>65
そらそのニヒリスト達が自分の人生観を基準に自分の子どもをと考えた時に産まれない方がいいなと思うからでしょ? >>67
だからなんで人生楽しい奴にまで子を産むなと主張するんだよ 「私たち夫婦は子供を生みません」で完結してれば問題ないんだけど
他人にまで「子供を産むべきではない」という思想を押しつけるのがダメなんだよ ニヒリストの人生がつまらなくても自分の子もそうだとは限らないじゃないか
自分の感覚で他人の命をどうこうしようとするのがおこがましい こういうのって人口過密や戦争の問題を抱えた社会特有の病気なんじゃないの?
反出生主義自体ではなくそれが出てくる背景を問題視すべきでは >>66
生態系云々ではなく「人類自身のために人類はいない方がいい」というのが反出生主義だな
>>69
ここにも反出生「主義」という日本語訳ゆえの誤解者が >>26
押し付けなんて出来なくね?w
お前のちんぽ去勢なんて出来ないだろw >>42
じゃあ今すぐ自殺する恐怖を消す方法開発しろ
命令な >>48
全く理解してないね君
どんなにイケメンでどんなにお金持ちでもその子供が必ず幸せになるわけじゃないんだよ
理解できないかい? >>68
その楽しいというのもただの刹那的な感情であり無価値であり虚無的であるって考えでしょ?ニヒリズムって 人は不幸になる可能性があるのだから産むべきでないって言うなら幸福であるかもしれないのだから産むべきって論も成り立つわな
この時点で反出生ってかなり無理があるけどもし幸福に生まれ育ったら反出生側は殺人者って言われる覚悟はできてるよね? >>77
幸福になるかもしれないけど不幸になる可能性があるのに博打なんかで子供生むのはよろしく無いよという話だよ
子供は産んでくれなんて言ってないんだから作られる前に >>77
生殖能力の限りを尽くして子供を作り続けてる人間以外は皆殺人者ってことになるな >>72
別に誤解じゃないでしょ
実際に反出生「主義」者って他者にまで押し付けようとしてるよね
あと「antinatalism」は「反出生主義」という訳で正しい
反出生「論」にしたいのであれば「ism(イズム)」ではなく「logy(ロジー)」じゃないといけいのにそうはなってない
antinatalismは理論というよりは信念でしかないよ >>80
ismを主義と訳すこと自体は間違いじゃないんだけど
日本語の「主義」って「菜食主義」みたいに「個人の生き方・モットー」みたいなニュアンスが強いから
antinatalismには合わないんだよね >>78
産まないでくれとも言ってないけどなw
人類滅亡がゴールの主義主張なんてのは生きてる人間がドヤ顔で語るもんじゃあない >>78
>子供は産んでくれなんて言ってないんだから
産まないでくれとも言ってないよ
子供が自分の意志を持つ以前の時点では「産んでくれ/産まないでくれ」は争点にならないので親の意志に任される
そして生まれた後に自分で意思を持つようになってから「どう生きるか/どう死ぬか」を子供自身で決めればいいだけ
>>74
いずれ来る死を先延ばしして自殺を選ばないのは
「自殺の恐怖(不幸が大)>生きる苦痛(不幸が小)」
ってことだから生きる苦痛とは相対的に小さなものでしかないってことだよね
「生きることは不幸だから生まれない方がいい」という主張ってその程度の弱いものだったのか >>81
例えば日本語の資本「主義」って「個人の生き方・モットー」みたいなニュアンスではないよね
多くの人々に共有(あるいは半ば強制)された社会の在り方だよ >>84
そうなんだよね
そう考えれば反出生主義も「信念でしかない」わけではない >>85
いや信念だよ
ism(イズム)は個人的なものもあれば全体的なものもあって「個人か全体か」は問題じゃなく
それが「信念である」というところに語の意味の中心がある 反出生主義じゃないなら女子中学生が妊娠しても叩くなよ?
そういう事だぞ >>87
産まないのが悪、という主義ではないので中絶するなり産むなり好きにしたら?としか >>86
全体的なものもあるなら他人に押し付けてはいけない理由にはならないよね >>82
だから博打なんてする必要がないわけ
しかも親には責任の取れない博打ね 不幸だお先にまっくらだと思うなら死ねば良いんじゃね? 生まれた瞬間に
死の呪いと四苦八苦の12苦がかかるのが確定してるわけだし >>89
全体的ものもあるけど反出生主義が「全体的である“べき”もの」ではないということだよ
菜食主義が個人的なものであるべきなのと同様に反出生主義もまた個人的なものであるべきなんだ
菜食主義も反出生主義も個人的なものを越えて全体に広げてしまうと社会を衰退させるから個人的なものである“べき”というわけだ、つまり「他人に押しつけてはいけない理由になる」
一方で資本主義のようなものは全体的信念になったことで経済的な富を増進し、社会を繫栄させた実績があるから全体的なものである“べき”という信念が(今のところは)広く共有されている >>90
博打なのは反出生も同じでしょ?
必ず不幸な人生が待ってる訳じゃないんだし
それに親には産んだ責任があるし全うしなきゃいけない義務があるぞ
養育義務っていうんだけど知ってる?w >>91
別に子供を生むという行為は博打ではないよ
子孫を繋いでいく人間の素朴で自然な営みだからね
生まれた人間の幸不幸は単なる運だけで決まる博打ではなく、その個人がどう生きていくか、あるいは社会をどう作っていくかという努力にも左右される
だから博打と一緒にしてはいけない
>>92
自殺を選ばないということは生きる不幸よりは小さいということだよ >>95
そりゃあ反出生主義は社会の衰退を積極的に進めるものだからね
そしてその方が人類全体にとって好ましいという考え
だから他人にも干渉するんだよ 「私の元に」生まれてくる子供は不幸になるから私は産まない、で完結させるなら好きなだけ論じてどうぞって感じw
「俺の元に」生まれてくる子供は輝かしい未来と幸福な人生を掴む可能性に満ち溢れてるから俺は産んだよ、いや産んだのは嫁さんだけどw 俺自身が負け続け失敗し続けたからな
今の世の中はあまりにも複雑すぎる
いや急速に複雑になりすぎたというべきか
ついて行けないものは脱落するしかない
まさに救いようのない地獄
他人は勝手にすればいいよ
俺は子孫は残さない >>100
こういう人が「反出生主義者」を自称するのも誤解を生む要因だね >>98
「社会の衰退が人類全体にとって好ましい」という考えは人々に広く受け入れられるものではない
だから反出生主義はマイナーで趣味的な小さい思想に留まっているんだよ
なぜ人々に受け入れられていないのか、それは(特定の個人の現実ではあっても)多くの人々の現実からはかけ離れた空想だからなんだ
これが社会の衰退を進める反出生主義が「人類全体にとって好ましくない」理由だよ >>101
誤解もなにも全くもって正統な反出生主義でしょ? >>102
現状広く受け入れられていないから啓蒙活動をしているんだよ
現状の多くの人々にとって空想であることは「人類全体にとって好ましくない」理由にはならないよ >>103
いや、「勝手にすればいい」ってスタンスだから是でも反でも無いよ
あえて呼ぶなら「脱・出生主義者」あたりかな
現代の若者の大多数はこのタイプだと思う >>105
まぁ、そもそも>>100は一言も「反出生主義」とは言ってなかったわw >>106
そうだね
でも自分の考えが反出生主義だと認識していたからこのスレタイに反応して書き込んだんだろう >>104
多くの人々にとって空想であることは「人類全体にとって好ましくない」理由になるよ
もしこれが空想でなく多くの人々にとっての現実なら、その現実を変えるための思想は「人類全体にとって好ましい」理由になるけども
空想ならこの現実を変えるための思想としては「人類全体にとって好ましくない」
かつて社会主義という思想が多くの人々に受け入れられ「人類全体にとって好ましい」と信じられていた時代には
多くの人々(労働者)にとって苦しい現実というものが本当に存在し、決してそれは空想ではなかった
そして後に、資本主義の下における労働者の苦しい現実が解消され、苦しい現実が消えてそれが空想に転じたので社会主義という思想は力を失った
その思想によって変えなくてはならないものが多くの人々にとって現実なのか空想なのかは「人類全体にとって好ましいか好ましくないか」を左右する理由になる >>107
それは>>100のみぞ知る、ってとこだなw >>108
現状の多くの人々にとって反出生主義が「空想」というのは単純に「理解されていない」という意味の表現だよ
現状で理解されていないからといって好ましくないことの理由にはならない まぁ結局は滅亡がゴールと謳うならさっさと死んで貢献しなよ啓蒙は義務じゃないだろw
他人に説くならまずは自分から実践しないとw
で終わる話だw
いや俺は子供を作らないからwで逃げるだろうけど、目指すゴールがあるならもっと積極的に目指さないと説得力がないぞ
自分で目指さない目指せない論なら最初から他人の前で説くのはやめとけw >>110
一般人(多数派)「生きていれば辛いこともあるけど楽しいことだってあるし生まれてきて良かった」
反出生主義者(少数派)「いや、お前は不幸なんだぞ自分が本当は不幸であることを“理解してない”だけなんだ!」
一般人(多数派)「自分が幸福か不幸かなんて自分で判断するから押し付けないでほしい」
反出生主義の内容を多くの人々が知ったら「私達は本当は不幸だったのか!」と目覚めるはずって思ってるかもしれないけど無理だよ
経済の発展により人々は「生きるか死ぬか」という“大きな問題”を心配する必要がなくなって
現代人の多数派における幸不幸というものは「他人に勝ったか負けたか」という“小さな問題(欲望の誤差)”に関するものでしかなくなってしまった
そのせいで「生きることは不幸だ」という命題は、理解されるか理解されないか以前にそもそも多くの人々にとっては「間違った考え」でしかない
(「生きることは不幸だ」は「幸福になることもある」で反証され、同様に「生きることは幸福だ」も「不幸になることもある」で反証される、つまり幸不幸を基準に出生か反出生かを語ることは不可能)
だから多くの人々に反出生主義が「理解される」とすれば、それは「どう正しいのか」ではなく「どう間違っているのか(必要条件かつ十分条件ではないため命題は偽)」という理解のされ方になるね
「生きることは不幸だ」という命題が偽である以上、この思想を押し付けることは「人類全体にとって好ましくない」理由になる
もちろん同様の理由で出生主義(絶対に生まないといけない)も否定される
結局のところ出生か反出生かは諸個人が自分で判断するべきものであるし、現実として出生する人の方が多いよね(世界人口は増え続けている)という話にしかならない
ちなみに先進国で少子化が進んでいるのは反出生主義によるものではなくチャイルドフリー(子供を持たない人生の方が経済的にも時間的にも自由で豊かだから子供を作るつもりがない)という
自分個人が生まれて生きていることを肯定的にとらえる考え方によるものだから「生きることは不幸だ」という考えとはむしろ正反対のものだよ >>112
反出生主義は個人が自分の人生の幸不幸をどう評価するかについては口出ししないよ
ただいずれにせよ子供は作るべきではないと言うだけで
あと現状として子供を作る人の方が多いという事実は「子供を作るべきである」という主張の根拠にはならないよ
「である」と「べきだ」は分けて考えないとね
先進国で少子化が進んでいる主要因が反出生主義ではないというのは同意見だよ
上で言った脱・出生主義が進行している状態だと考えてる >>112
反発心が先立って正しく理解できてない人を体現しちゃってるじゃん >>113
>ただいずれにせよ子供は作るべきではない
そこが間違ってるんだよ
本人自身が生まれてきて良かったと思っているなら、それを無視して「子供は作るべきではない」という主張はできない
世の中には生まれてきて良かった(あるいは良くなかった)人もいるという事実がある以上、出生か反出生かは人それぞれというしかないんだ
>「子供を作るべきである」という主張の
そんな主張はしてない「子供を作るべきだ」も「子供を作るべきでない」も諸個人に任せられるべき個人的な信念だと主張している
「結局のところ出生か反出生かは諸個人が自分で判断するべきものであるし」って>>112に書いてるよね
出生主義(みんな生むべきだ)も反出生主義(みんな生むべきでない)も、どちらも他人に押しつけてはいけないという主張だよ
「現実として出生する人の方が多いよね(世界人口は増え続けている)という話にしかならない」という部分は「べき」ではなく「である」の話だよ
個人が自分でするべく判断した結果が「出生」に傾いている(つまり反出生主義は広く受け入れられてはいない)という事実確認の話だ
>「である」と「べきだ」は分けて考えないとね
分けて考えているよ
現状として子供を作る人が多いという事実は「出生することを肯定している人が多い(つまり「である」)という事実を指摘してるだけで
みんなが子供を生む「べき」だという主張ではない
そしてもちろん子供を生まない「べき」という主張でもない
>上で言った脱・出生主義が進行している状態
>>100の人は「他人は勝手にすればいいよ俺は子孫は残さない」と主張しているから
脱・出生主義と呼ぶよりは「個人的反出生主義(自分は子孫を残さないけど他人には押し付けない)」と呼んだ方が正確だね
この人は「個人として出生しない」だけでなく「他人にそれを押し付けない」という部分も見逃さずに汲み取る必要が有る
つまり反出生主義には「個人的反出生主義(他人に押し付けない)」ものと「全体的反出生主義(他人にも押し付けるもの)」があるわけだ >>114
>反発心が先立って正しく理解できてない人を体現しちゃってるじゃん
それは>>113の『「子供を作るべきである」という主張の根拠にはならないよ』に対して言った方がいいよ
>>112で「子供を作るべきである」なんて主張はしてないからね
それに加えて「理解されてない」に対しての解答は「不幸=悪」「幸福=善」で置き換えれば問題なく整合性がとれてる
>>113の「個人が自分の人生の幸不幸をどう評価するかについては口出ししないよ」を
「個人が自分の人生の幸不幸(善悪)をどう評価するかについては口出ししないよ」に変換したら
いずれにせよ子供は作るべきではないという主張はできなくなるからね
ここで「反出生主義は幸福か不幸かではなく、善か悪かで判断してるんだ」と言い訳しても通用しないよ
「幸福=善」「不幸=悪」という等式を否定したら反出生主義の「出生は(苦痛=不幸だから)悪」だとう主張は成り立たないからね 反出生主義って因果関係と相関関係を混同してるから間違った結論(出生は悪)に陥っているんだよ 元本保証なしの投資を理解出来ない哀れな人たちの思想って感じ >>115
>世の中には生まれてきて良かった(あるいは良くなかった)人もいるという事実がある以上、出生か反出生かは人それぞれというしかないんだ
そんなことはないよ
既に生まれてしまった者の自己評価はあくまで自己評価でしかなく、これから新たな生を作り出すか否かの判断材料にはならない
反出生主義が「子供は作るべきではない」という結論に至るアプローチはいくつかあるけど、代表的なものとしてベネターの非対称性論を調べるといいよ
>現状として子供を作る人が多いという事実は「出生することを肯定している人が多い(つまり「である」)という事実を指摘してるだけで
いずれにしてもその事実は「子供を作るべきか否か」の議論において何の効力も持たないよ
>脱・出生主義と呼ぶよりは「個人的反出生主義(自分は子孫を残さないけど他人には押し付けない)」と呼んだ方が正確だね
既存の出生主義からの脱却が進行してニュートラルなスタンスに移っているから「脱・出生主義」という表現を使ったけど、言葉の問題だから好きにしたらいいよ
そのニュートラルな人たちの中にも実際に子供を持つ人と持たない人がいるけど、それは個人的な事情や好き嫌いによるものだからあまり重要ではない そもそも、生まれてきたくないと思ってても。地球上に生物が誕生してからありとあらゆる種が子孫残してきて今に至るわけで、そいつら絶滅させない限り、因果から逃れられんくね?
生きたくもないのに生まれてきた時点で罰ゲームを受けてんだよ 生まれてきたくなくても生まれてしまったものは仕方ないし
それが運命なら死んで終わらせるしかないんじゃない
反出生主義だって、自分一人の中の願望なんだし。他人と価値観共有不可能で、周りから見たらキチガイなんだから死ぬしかないんだが 反出生主義のスレって毎回ストローマン論法取る人が沢山現れるの何でだろう 個人の道徳を他者に押し付ける。
これは自他境界が曖昧な人の特徴
「自分がそう思うのだから他人もそう考えて当然、そう考えない奴は馬鹿だ」となる。 反出生主義の話すると話ができないガイメンしかいないからな 自他境界が曖昧ということは、自己の責任範囲を明確にしないで済むので、子を為さないという自己の判断の責任を問われないで済む。
低い自己肯定感故に自己の判断に責任が取れないと感じているわけよ
目的は、罪悪感からの逃避(宗教的意義)にあるので、論理的な矛盾や破綻を抱える宗教的信念であることが分かる。 反出生主義者だね。
これはヴィーガニズムとか環境保護とかフェミニズムにも通じる構図で、自己の罪悪感から逃れるためのエセ宗教全般に見られる。
嵌りやすい人というのは、自己肯定感が低く、自他境界が曖昧な他律的道徳観の持ち主ということに >>129
反出生主義者全般って事?
むちゃくちゃ言うとるな うーん
やっぱり反出生主義そのものではなく
「反出生主義者」に攻撃が行くんだよなあ >>131
相手の心に反発心を生まない伝え方をなんとか考えて行かないと永遠に不毛なままになりそう それは本能的な男性性は、出生について問題視しないという所があるからね。
「産みたければ産めよ。あとは知らん」
という出生以降には何ら責任を感じない動物的な部分 >>121
>これから新たな生を作り出すか否かの判断材料にはならない
ある人の生の自己評価が善であれ悪であれ新たな生を作り出すことについては肯定も否定もできないんだよね
だから全体的出生主義(みんな生むべき)も全体的反出生主義(みんな生まないべき)も正しくないと主張している
個人的出生主義や個人的反出生主義ならどちらも問題ない、なぜなら未だ存在してないものは肯定も否定もできないニュートラルな状態だから
出生であれ反出生であれ、全体に押し付けるなら肯定されるか否定されるかが既に確定してないといけないが未来は確定していないので諸個人の選択に委ねるしかない
>いずれにしてもその事実は「子供を作るべきか否か」の議論において何の効力も持たないよ
「べき」で語られるのは「諸個人の判断で行われるべき」の方であって、その現実的結果として人々に広く受け入れられてるのは出生する方だよねというのは現実の事実確認をしてるだけ
出生を選ぶ人が多い事実をもって子供を作るべきか否かの議論で効力があるとは言ってなくて
「生きることは幸福(善)だ」も「生きることは不幸(悪)だ」も命題としては偽、つまり「必要かつ十分な条件ではない」のだから「べき」で語られるのは生むにしろ生まないにしろそれは個人の判断に任される「べき」ということ
出生か反出生かについて、倫理的・道徳的に人類全体が従うべき効力のある理論や原理や(不変かつ普遍な)現実的状況なんて存在しないからそれらは諸個人の事情や状況に基づいた選択に任される「べき」なんだ
つまり「全体的出生主義」も「全体的反出生主義」もそれらは共に他者へ押し付けるべき妥当性を持ち得ない
>既存の出生主義からの脱却が進行して
100の主張は既存の出生主義からの脱却だけでなく「既存の反出生主義=全体的反出生主義」からの脱却でもあるから脱・反出生主義(脱・全体的反出生主義)でもある
>ニュートラルなスタンスに移っているから
100は既存の出生主義からも既存の反出生主義からも脱却しているけれど決してニュートラルではなく明確なポジション(立ち位置)をとっているよ
それは@反出生であることA個人的なものであること、という位置取りだ
もしニュートラルだと言うのなら出生でもなく反出生でもなく個人でもなく全体でもない状態でなければならないが彼はそうではない
「脱」は全体的出生主義からの「脱」だけでなく全体的反出生主義からの「脱」でもあるので結局「個人的反出生主義」と呼ぶしかない
「言葉の問題だから好きにしたらいいよ」で「脱」を使い、それが個人的なものであるという意味合いを曖昧にして誤魔化せるものではないね
>それは個人的な事情や好き嫌いによるものだからあまり重要ではない
ニュートラルな人達は生むにしろ生まないにしろ思想信条を媒介させずに妊娠するかしないかを自然な流れとして受け入れてるわけで
その個人的な選択に対し他者が「重要かどうか」で判断しようとするのがまず無意味でしかない
このニュートラルな人達の個人的な選択は「重要かどうか」ではなく「尊重すべきかどうか」という話だよね(そしてもちろん尊重すべきだ)
彼らの選択に「全体的出生主義」や「全体的反出生主義」が口出しをしてはならず、個人的出生主義や個人的反出生主義はそのどちらもが尊重されるべきなんだ 出生主義や反出生主義は、食料資源問題による産児制限、富国強兵のための殖産興業など現実対応の求めにより形作られる道徳なので、個人主義的理想による「どちらの主義も尊重されるべき」という論には穴があるんよね。 >>134
>ある人の生の自己評価が善であれ悪であれ新たな生を作り出すことについては肯定も否定もできないんだよね
>だから全体的出生主義(みんな生むべき)も全体的反出生主義(みんな生まないべき)も正しくないと主張している
反出生主義は既に生まれてしまった者の自己評価を根拠にしているわけじゃないよ
>生むにしろ生まないにしろそれは個人の判断に任される「べき」ということ
その主張はまさに「子供を作るべきか否か」という問いに対する回答の一つであって
その根拠として「現状として子供を作る人が多いという事実」は使い物にならないという話だよ
>既存の出生主義からの脱却だけでなく「既存の反出生主義=全体的反出生主義」からの脱却でもあるから脱・反出生主義(脱・全体的反出生主義)でもある
ミクロではなくマクロの話だよ
個人レベルで言えば反出生主義からニュートラルにシフトした人もいるかもしれないけど
社会全体としては出生主義者が減る方向にあるから「脱・出生主義」と呼んでいるだけ
>このニュートラルな人達の個人的な選択は「重要かどうか」ではなく「尊重すべきかどうか」という話だよね
「重要ではない」と言ったのは「尊重されるべきではない」という意味ではないよ
彼らは自分にとってのメリット・デメリットやその場の成り行きで子供を作ったり作らなかったりするだけで
"ist"としての性質は弱いということ >>134
「生きる事は"全ての人にとって"幸福だ(or不幸だ)」って事なら社会的な主義の根拠になりうると思うけど、そういう話? この世に絶望的に不幸な人が存在してしまう事を防いでいこうって話だと理解してる
そしてその人がどこに生まれるかは予測が不可能で、とても愛情溢れた理知的で裕福な家庭に生まれた子がそうなってしまう可能性もある
なので防ぐ為には人類全体がその不幸に心を寄せて、子を持つ事を諦めようって論なのかと >>134
長くて荒らしだと思ったらそうでもなくてワロタ 子を産まないという個人の価値観に基づく行動は、少子化が問題視されている現代では、倫理的価値が薄れている。
その薄れた倫理的価値の補強のために、反出生主義という名を以て社会道徳としようとする動きなわけ
簡単に言えば、言い訳であり、責任回避と受け取られるので、個人的選択としての非出生よりも倫理的価値は低く見積もられる。 子を産まないという自己責任による行動に対する批判に耐えられないからだね。
一般的な社会規範としての、結婚して一人前、子供を産む育てて一人前という価値観に対抗できない。
自他境界が曖昧だから、自己の責任範囲が特定できない、自分というものが明確でないから。
他人は産んでいるのに自分は産んでいないという現実に認知的な不協和が生じてる。 妄想が過ぎる
現代ではって言うけど最近の方が出産の圧少ないだろ 出産の圧が少ないから倫理的価値が薄れていると言えるのよ
出産の圧が高い昭和とかの方が、個人主義的選択としての非出生の主張は倫理的価値が高い。 >>121
>ベネターの非対称性論を調べるといいよ
この非対称性論は「出生は悪である」という結論を導くために設定された「恣意的な前提条件の操作」に基づいているから間違ってるんだよ
i)主体Xが存在する時:「苦痛の存在(悪)」「快楽の存在(善)」はいいとしても
ii)主体Xが存在しない時:「苦痛の不在(善)」と「快楽の不在(悪くない)」というこの2つのうち前者には論理的妥当性がないし後者の文言には若干の修正が必要
苦痛や快楽を感じる主体Xが存在しない以上、そこには空白しかあり得ず「苦痛の不在(善でも悪でもない無)」だし「快楽の不在(善でも悪でもない無)」でしかあり得ない
非対称性論における、ii)主体Xが存在しない時の「苦痛の不在(善)」と「快楽の不在(悪くない)」というこの2つのうち前者は因果関係と相関関係の混同による誤謬推論だし
後者は、悪くないだけではなく善くもない、つまり無という形に文言の修正が必要(後者については意味論的な変化はないが修辞学的な正確さが欠けていた)
まず分かりやすい後者から見て行くと「ある人が存在していてその人から快楽が奪われるのであればそれは悪いことであるが、主体が存在しないから快楽が不在になっているのであればそれは悪くない」とある
悪くないし善くもないので±0(無)という文言にすれば後者は一先ず意味的には変化なしでいいんだけど
ポイントとなるのは前者「苦痛の不在(善)」の方で
前者は「主体Xに苦痛が存在しないことは善い(たとえ苦痛を不在にする方法がそれを経験する主体をつくらないことだとしても)」とあるが
主体Xを作らないことは苦痛が不在であることの「相関(というよりもコロラリー)」ではあっても「原因」ではないんだ(←※この部分の詳細は後述)
そして後者のほうでは「ある人が存在していてその人から快楽が奪われるのであればそれは悪いことであるが、主体が存在しないから快楽が不在になっているのであればそれは悪くない(そして善くもない無だ)」
と言っていることから権利上では同様にこうも言える
「ある人が存在していてその人に苦痛が与えられるのであればそれは悪いことであるが、主体が存在しないから苦痛が不在になっているのであればそれは悪くない(そして善くもない無だ)」とね
よってii)主体Xが存在しない時は「苦痛の不在(善でも悪でもない無)」だし「快楽の不在(善でも悪でもない無)」でしかあり得ない
善を+1、悪を−1、無を0とするならベネターの非対称性論はi)でも苦痛の存在+快楽の存在=ー1+1=0となるし
ii)でも苦痛の不在+快楽の不在=0+0=0というわけで、i)もii)も±0で非対称性は破られているんだ
これで非対称性論の論理的な不備の指摘は十分なんだけど
※の部分の「コロラリーであって原因ではない」は存在論としてそこそこ抽象度が高い話で面倒になるから後でな(起きていられればやる…) 「反出生主義者が反出生主義を主張する動機」をいくら追及したところで
反出生主義そのものを揺るがすことにはならないのにね 「交通事故で死ぬ不幸な人がいるから自動車は全面禁止」
みたいな頭の悪い主張だからね >>136
>反出生主義は既に生まれてしまった者の自己評価を根拠にしているわけじゃないよ
反出生主義の根拠であるベネターの非対称性論の間違いの指摘は>>145
>「現状として子供を作る人が多いという事実」は使い物にならないという話だよ
それを使い物にはしてないよ「子を作るかどうかは各個人が自分で選択すべき」の根拠は「出生か反出生かを他者へ押し付ける正当性はない」ことによる
>まさに「子供を作るべきか否か」という問いに対する回答の一つであって
違うな「子供を作るべきか否か(出生か反出生か)」ではなく「個人の選択に任せるべきか否か(個人か全体か)」への解答だよ
「子を作るか否か」じゃなく「その考えを他者へ押し付けてもよいか否か」への解答なんだけどな
>ミクロではなくマクロの話だよ
「自分は反出生を選ぶが他者へはそれを押し付けない」という考え方はその性質上「他者へは押し付けない」という意味合いを持ち、これを隠蔽するような「脱・出生主義」という語は誤認識しやすい不正確な表現でしかない
だから同様にこれを脱・反出生主義と呼ぶのも不正確にはなる
社会全体(マクロ)としては「他者に押し付ける人」が減る方向にあるからそれは全体的ではなく「個人的」反出生主義なんだ
重ねて言うが、その考え方の性質に即した正確な呼び方かどうかが問題なんだよ「脱」では「社会全体として出生主義者が減る方向である」ことは表せていても
「社会全体としては他者へ押し付ける人が減る方向である」ことは表せておらず隠されているから不十分かつ不正確な呼び方でしかない
社会全体(マクロ)な話として@出生主義者が減る方向とA他者へ押し付ける人が減る方向の2つがある
>"ist"としての性質は弱いということ
「重要さ=“ist”としての性質」は強くても弱くてもどちらでもいいから無意味だと言ったんだ
子供を作るべきか作らないべきかにまず思想信条(ist)を持ち出すという前提がそもそもグロテスクで歪な考え方なんだよ
諸個人の自由な選択に任されるべきであって君の言う「重要さ=“ist”としての性質」なんて弱くてもいいんだ(むしろその方が健全)
ほとんどの人は出生主義でも反出生主義でもなく人間的に自然な行為として妊娠して出産もするという流れだから
"ist"としての性質の強弱を「重要さ」という言葉と結び付けようとするのはやめた方がいい
子を授かるか授からないかについて"ist"としての性質の強弱は別に重要ではない
そして意識的に(つまり思想として自覚的に)子を作るか作らないか選ぶ出生主義者や反出生主義者は「思想(ist)=重要」という考え方に普遍性がないことを自覚したほうがいい
これを自覚していないと今の君がまさに書いたように、「"ist(思想)"としての性質が弱い」ことを指して「重要ではない」などという乱れた言葉の使い方をしてしまうから >>147
そうそれ
交通事故の原因は「スピードの出し過ぎ」や「飲酒」や「悪天候による路面状況の悪さ」や「眠気による不注意」等々ではあり得ても、決して「自動車というものが存在していること自体」が原因ではないんだよね
「自動車が存在する(その人が生まれた)」事と「交通事故が起こる(その人が苦痛や不幸である)」事とは相関的なコロラリーの関係なのであって因果関係ではない
反出生主義では相関性と因果性を混同してるせいで間違った推論プロセスを行っているんだよ
出生(自分が存在する)事は、自分が「苦痛=不幸=悪」という状態におかれていることに対しては原因ではなく、超越“論”的な相関関係にある
「存在“論”的な審級の次元」の違いについて分析しなくてはいけないところなのに、反出生主義者たちは(ベネターも含めて)これを「存在“者”の超越的な審級の次元」の違いだと誤解して思考するから間違えた結論にたどり着いてしまう これは弱者を淘汰しないことが原因だと思う
よく偽善者は平等とか公平とか言うけど
それがむしろダメだったということ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています