お前らの最寄りの城書いてけ。それがお前の攻撃力な。
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その理屈で謂うと万里の長城から剥ぎ取りして自宅の建材に使ってる中国農村部のやつが最強なのだが 旧名千城村と言われた地域だから小さな城だらけだわ。
一番有名なのは猪鼻城。千葉氏初期の居城で当時は海岸線がもっと近く城の近くまで海だったらしい。 本当に一番近い城は多部田城。これまた千葉氏系の城で千葉常胤(源頼朝が千葉に逃げてきた時に助けた人)の五男の館だったらしい。
豊臣秀吉による小田原城攻めの時に近隣の白井村の地侍達(件の千葉氏五男の末裔を自称していた。ちなみに五男本人は源頼朝に気に入られて他所に栄転)北条側につき、秀吉の命令で徳川家康の家臣・本多忠勝と平岩親吉に攻め落とされた。
現在は城の跡は殆ど残っていないが、地元の人達に聞くと第二次大戦中に軍が城跡を壊して何かしていたらしい。
防空壕か何かだろうとの事だったが気になったので詳しく調べてみると、アメリカ軍が九十九里浜から上陸してきた時に戦車で迎え撃つ為にココを戦車基地にする予定だったというトンデモ作戦の記録が出てきた。 実はもっと近い城があるが、名目上は寺でしかも現存しているので名前は控える。
旧東金街道沿いにあり大きくカーブした急坂と深い切り通しを利用した明らかな城であり、しかも近くの神社が出城(というより郭)の機能を果たしていて、攻めてきた敵を前後から挟み撃ち出来る構造になっていてかなり堅固な作りになっている。
俺個人的には「実は千葉市内で最も堅牢な城なのでは?」とすら思っている。
作られたのは平安時代で、当初から近隣の村人が戦が起きた時に逃げ込む為の避難寺として作られたようだが、
現在のように露骨に城郭化されたのは江戸時代だという伝説が残っていてコレがなかなか興味深い。 >>56の続き
江戸時代この寺を居城?にしていたのは板倉重直という徳川家臣で、島原の乱の鎮圧の総司令官だった板倉重昌の次男である。
板倉重昌は島原の乱で戦死し、その敗戦の責任を負わされる形でお家は閉門され一族は蟄居になってしまったが、
島原の乱鎮圧後数年後に何の手柄らもなく五倍の領地で大名として復活する。
理由は簡単、敗戦戦死の原因は身分の低い板倉重昌を島原討伐軍の総司令官に任命した将軍・徳川家光のミスであり、徳川幕府としても「将軍が悪い」とは公式に言えなかったので戦死した板倉重昌に罪を被ってもらった形にしただけだからだ。
大名家としては長男が引き継ぎ、次男だった板倉重直は兄の領地内から五千石を分けてもらって独立した家となったが、不思議なのはその領地の中にこの寺と周囲の土地は含まれていなかった事だ。
なぜ自分の領地とは全く関係ない寺を居城としていたのか、しかも地元伝説によれば板倉重直は近隣の鎌倉時代の武家屋敷を改修して城とし、寺の背後の村を丸ごと城塞都市化したと伝わっている。
下総(千葉北部)には代々徳川幕府重臣が居城とした佐倉城があるのでコレは明らかに武家諸法度違反である。
つまりこういう事だろう、寺と神社そして背後の村の城郭化は幕府の命令によるモノで、東金街道沿いにあって堅牢なこの寺は関所の役目も持っており、板倉重直は公式では無いモノの事実上関所の代官として就任していたと。
それにしてもなぜ徳川幕府は島原の乱直後にわざわざこんな新規の関所城郭を造らせたのか?ひょっとしたら島原の乱にはまだ我々の知らない秘話が隠されているのカモ知れない。
たとえば本来はもっと欧米の勢力が島原側に加担して日本を本格的な宗教内戦状態にする計画があったとか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています