1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックで、レース途中で日射病で意識を失って倒れた金栗四三は、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。競技当日は、40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権し、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロは倒れた上、翌日亡くなった。マラソン中に消えた日本人の話は、地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。

メダルが期待された4年後のベルリンオリンピック(1916年(大正5年))は、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり、出場を果たすことができなかった。その後、1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績は、アントワープで16位、パリでは途中棄権に終わっている。

1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、四三を記念式典でゴールさせることにしたのである。

招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。四三はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。

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