法華経と聖書は偽書
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あれは「完璧と思い込んでるだけ」
あれには
「この本は完璧です。他にいりません」
と書いてあるのだが
人間の知識欲をストップさせアホにする
あの情報をインプットされ真に受けると、勉強しなくてバカになる
だから、平安時代に法華経が蔓延したときはバカが増えた
アメリカのプロテスタントも勉強しないバカだらけ
創価学会もバカが多い
あれは間違い
まともな学者肌の自己啓発者は
「まだまだ終わらない。この本にはすべてを書ききれない。死ぬまで新しいことは発見される
興味の向くまま勉強し、修行すべき」
と書く >>3
あれは普通の本
般若心境はリッチ感が無い
読んだ人を幸せにさせた上で
「これ以外読むな!」
と命令するのがやばい
まるで母親が子供にあまあまに愛情を注いだうえで
トンデモな命令下すのと一緒で、その呪縛を解くのはかなり困難
大人になってから読んだらすぐに解ける
前段階で人格を確立する前に儒教とかでコントロールしてるから
逆に初期の段階で法華経や聖書を読んでしまうとかなり危険 名誉会長 そう。勉強は権利であり、喜びです。「学ぶ」ということは、何より楽しいものなんです。
それを若者から奪い取るのが、残酷な戦争です。その苦しさや悔しさを、次の世代には絶対に味わわせてはならないと心に決め、私は平和のために戦ってきました。
だから、私が青春時代から愛読してきた、ドイツの大文豪ゲーテの言葉を、みんなに贈りたい。
「学問のなかには、なんというすばらしい世界がひらけていることだろう」(ビーダーマン編『ゲーテ対話録第二巻』菊池栄一訳、白水社刊)
学問の探究に思い切って飛び込めば、発見がある。その喜びでゲーテは生命を躍動させました。
詩人、小説家、劇作家であり、そして、自然科学者としても、政治家としても大活躍したゲーテは一生涯、学び続けた人でした。
今、このゲーテを巡って私は、ワイマール・ゲーテ協会顧問のオステン博士と対談を進めています。(総合月刊誌「潮」で連載)
その冒頭、オステン博士は、ゲーテの信条について語られました。
それは「力を入れて学んだことは、誰も奪い去ることができない、永遠である」との確信です。
人は学ぶために、生まれてきました。「生きること」は「学ぶこと」といってよい。
学んだ内容は、たとえ忘れたとしても、学ぶ心は、わが生命を永遠に飾ってくれるのです。 >>5
これほんとか知らないが、原典がダメなんだ
法華経と聖書の力を借りて語ったら、原典にたどり着く
だから賢い人間は「ユダヤ教」を引用する
あれはストップしないんだよ
なんせストーリーが終わってなくて途中なんだ 宗教って拡散の過程で弱者に都合良く解釈されて甘えが出てくるんだよな >>15
ウリスト教が高額の献金をしてくれる金持ちに都合よく教義を変えてってバチカンから異端扱いされたようなもんかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています