【「実存的境界例論」番外編】 (ヤスパースの)実存主義と仏教、それとワンピース 【ネタバレ注意】【ド素人の考察なので注意】
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目次
・初めに
・仏教まとめ①~②
・仏教への疑問①~⑦
・【ネタバレ注意】ワンピースって仏教の話じゃね? 初めに
・「実存的境界例論」についてはこちらを参照↓
h ttps://note.com/existential/n/n090c36aef3d9
・私の言う「実存主義」はあくまでもヤスパースの実存主義ね。
サルトルのせいで誤った実存主義が広まってしまっているのが面倒臭い・・・。
・境界例の原因が分かった後、仏教に対して疑問が湧いた。
境界例は「実存に基づけられない」からトラブルが起きるのに、仏教では「解脱」、つまり「実存から脱しよう」とする、のは何故・・・?と。
それで仏教の勉強を始めた。
もし実存主義の反証的なものが得られれば、更に理解を深められるだろうし、単純に仏教に興味もあったし。
・仏教って「宗教」というより、今で言う「物理学」や「量子力学」の話なのな。
しかもおそらく人類史上最も広い視野で物事を扱っている。
結論的には結局曖昧なまま行き詰ったし、個人的には考えが少し違う(後述する。)けど、私は仏教を勉強して良かったと思っているし、皆高校生くらいになったら一度仏教を嗜んでみると良いと思う、信仰するかは別として、というか宗教じゃないと思うし。
視野が一気に広がる。
・私に仏教を教えて下さった様々な方々に感謝しております。 仏教まとめ①~②
私は学者でも何ない、ただのそこら辺に居る一般人なので、「この考察が間違っている可能性もある」という前提の上で読んで欲しい。
もし何処か間違っていたり無礼な事を言っていたら御免なさい。
では纏めます。
①もし仮に、周囲に何も依存せず、何も作用されない、確固たる自性・独立自存なものが、一つでもあったなら、それに依ってその他のものも固定や規定されてしまうはず。
でも実際は雨は降るし、風は吹くし、お腹は空くし、ウ〇コはするし、ご飯を食べれば幸せだし、貯金が減れば不安になるし、etc・・・と、全てのものは作用・依存し合い、移ろい行く。(諸行無常)(この全てのものの依存関係が「縁起」)
すると逆説的に、この世に自性のあるものは何一つとして無いという事が分かる。(空(くう)、一切皆空)
これが仏教の基礎知識。
因みに、実存(色(しき))を徹底的に論破したのが龍樹(ナーガールジュナ)が書いた「中論」。
②その前提の上で「自分」というものを考えてみる。
「自分」を構成しているものの内、自性の無いものは「それって本当に「自分」なの・・・?」と、頭の中で剝ぎ取って行く、肉体も精神も。
すると最後に残るのは「観」。
「観」が縁起に巻き込まれず、自分に在る状態が「観自在菩薩」、ブッダの一歩手前。
「観」や「空」自体も「空」である、という至高の段階が解脱であり、涅槃であり、ブッダ。
あくまでも俺の理解に間違いが無ければね・・・。 仏教への疑問①~⑦
①仏教の目的について、どうも二説あるようだ。
・苦しみからの救済
・単なる真理探究
②まず、かの有名な「般若心経」の内容は、とある修行僧が観自在菩薩に「空」について質問した話なんだが、その中で「度一切苦厄」「能除一切苦」と、「苦しみからの救済」を意味する節が二つ出て来る。
(一応、この内、前者の「度一切苦厄」は原典には無く、鳩摩羅什と三蔵法師の漢訳だけにあり、最後の方にある「能除一切苦」を強調する為に追加されたものらしい。)
③私の疑問はここなんだよ。
「実存から脱する事の意味や価値を実存から導くのは、パラドックスが起きてしまうのでは?」と。
最初から実存に基づけられない出来損ないの糞境界例共と、涅槃が異なるのは、後者は実存経験が有るから意義を持つ点であって、すると実存に根差してしまうからやはりパラドックスが起きてしまうのでは?と。
すると実存から脱する事は一概にというか、別に正解ではないのでは?
結局実存に基づく事は必須で、となるとやはり正解はヤスパースなのでは?と。 ④一方、「涅槃」のサンスクリット語である「ニルヴァーナ」の語根は「ニル・ヴァー(煩悩を吹き消す)」ではなくて「ニル・ヴリ」、つまり「覆う」という意味の動詞語根「ヴリ」に否定の接頭辞「ニル」がついたもの、要は「覆いの無い状態」説(これは別の話で後述する。)があり(但し、確実な例証は知られていない。が、「ニル・ヴリ」から派生した「ニルヴリティ(パーリ語はニッブッティ)」の記述は仏典の最古層に既にあるから、やっぱり「ニル・ヴリ」が語源なんじゃね?的な。)、となると別に「苦しみからの救済」ではなくて「単なる真理探究」をした結果涅槃に行き着いただけなんじゃないか?と。
⑤また、「苦しみからの救済」が目的であれば、般若心経で修行僧が質問する相手は、「知恵を持って遍く一切を照らし、(略)迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救う(略)」、「勢至菩薩」でも良かったはず。
でも実際は「観自在菩薩」に聞いた。
その事からも、「単なる真理探究」が目的だったんじゃないか?とも言われている。 ⑥それだと「能除一切苦」とは・・・?
となるから、「苦」についても調べてみた。
日本に於ける仏教は、サンスクリット語→漢訳→日本語訳、と翻訳を複数介しているし、そもそもサンスクリット語から漢訳する際、サンスクリット語の発音に合う漢字を当て嵌めただけだったりもするから、翻訳されたものだけで理解しようとすると誤解する恐れがある。
実際、サンスクリット語の「dukkha(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なり、「苦しみ」は、dukkhaの一部に過ぎないとする立場もある。
アルボムッレ・スマナサーラによると、釈迦の説くdukkhaは、現代語の「苦」とは別物である。
現代語の苦は具体的には、肉体的な苦痛と精神的な苦痛とがあるが、スマナサーラによれば仏教で説くdukkhaには、「苦しみ」「虚しい事」「不完全である事」「無常である事」の四つの意味が含まれるという。
が、結局実存から導いている事に変わりは無いようだ・・・。
⑦ここで私の仏教の勉強は行き詰ってしまい、止まっている。
「実存的境界例論」で、「生物も含めた実存自体に関しては仏教の中論の見解がおそらく正解なんだろうけど、生物として生まれた以降の見解ではおそらくヤスパースが正解だと思う。」と曖昧な説明をしていたのはこういう背景によるものである。
ヤスパースは世界の様々な思想・宗教を纏めており、その中で仏教についても纏めているが、このパラドックスに関するヤスパースの記述は無かったと思う。
また、その本を日本語訳した仏教学者による後書きで、「これこれこういう点でヤスパースの仏教理解はまだ甘い。」というような事も書かれていたが、このパラドックスが解決されるものではなかったと思う。
勉強したのが十年程前なのでハッキリとは覚えていないが。 【ネタバレ注意】ワンピースって仏教の話じゃね?
最近のワンピースの考察で「ワンピース=温泉」説がある。
ゴールド・ロジャーの「この世の全てをそこに置いてきた。」は、入浴する際は衣服や武器や財宝に限らず、権威や肩書きや地位等も全てを脱ぎ去って置く事を指している、と。
ゲダツの扉絵はそこまでの流れの比喩、と。
私は思った、あれ?それって「覆いの無い状態」、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)」じゃね?と。
「覆いの無い状態」を表現する為に、温泉という場を用いたんじゃね?と。
もしかしてワンピースって仏教の話じゃね?と。
ゾロの技等、仏教用語がちょくちょく出て来るし。
私のこじ付けだろうか?
まあまだ「ワンピース=温泉」と決まった訳ではないし、私はワンピース考察勢ではないので普通に間違えているかもしれないが、そんな事を思った。
もし涅槃を意味しているのであれば、個人的に嬉しい。
あくまでも世界大戦の反動で近年の日本に長らく蔓延していた「全体主義か、個人主義か自由主義か」というようなくだらないイデオロギーではなく、ヤスパースかブッダどちらかでもいいから「実存主義」的な方向に結論付けてくれれば、本質から大幅に外れ迷走しまくっている今の日本にとってプラスになるから。
あと今の若者達に忠告しておきたい。
「自分の居場所を探している感じの中高年にはガチのマジで気を付けて。」と。
終わり。 解脱と言うのは輪の流れから外れる事で
輪の外に出る事ではなく
輪の中で流れに流されず1ヶ所に留まり続ける事なんだよ
人は生と死(成仏)を繰り返す
それを繰り返すサイクルから外れ、成仏で在り続けるのが解脱 >>10
うん、そう書いてるけど
「留まり続ける」以外 仏教の苦しみからの救済と言うのは苦しみが無く楽に包まれた状態の事では無い
苦しみの本質とは落差
甘い物を知るから、それと比較して塩っぱい物を知る事が出来る
もし甘い物が無ければ比較対象が無いので塩を舐めても塩っぱいとは思わず、普通の味だと感じる
スイカに塩を掛けると甘さが引き立つのと同じ
仏教や苦しみからの解放も同じで
楽があるから苦を感じる
つまり苦しみから解放される為には楽を捨てる必要がある
苦楽からの解放された如来は菩薩や明王の様な笑顔や憤怒の表情ではなく、仏頂面と言われる無表情なのはその為 >>13
おお、「仏頂面」ってもしかしてそういう由来だったのか
なるほど
ただまあ、いずれにせよその価値や意味を実存からの導いている事に変わりは無いよね
だからパラドックスが起きてしまうよねっていう >>12
留まり続ける場所は、阿頼耶識
五感、第六感、末那識の先にある
五感と言うのは肉体がある命ある生の状態
第六感とは自我のある魂の感覚
末那識で自我はなく無意識になり
阿頼耶識では自他の境界すら無い1つの大きな集まりとなる
悟りを開く、解脱するには自他の境界を捨てなくては成らず
如来は他が存在しない為に他を救うと言う願いや憂いは存在しない
他を救うと言う願を持つ菩薩は
自他の境界を捨てれない為に悟りを開けず如来に至れない >>16
なるほど、まあ詳細的にはそういう事なのかもしれないね
けど俺の疑問点はそこじゃなくて、「解脱の価値を実存から導くパラドックス」の部分なんだよね
というかもしかしてちゃんと詳しい人?
めっちゃ居る、知ったかで高説垂れたがる人じゃなくて、ちゃんと詳しい人?
失礼なレスしちゃったかも・・・ 煩悩とは自我
無垢な魂を覆う衣としての自我を脱ぎさり
他の自我を脱ぎ捨てた魂と1つになり無垢な魂の集合体となる
その集合体としての1つの魂を如来と呼び
その魂のある場所を涅槃と呼ぶ
人が死ぬと仏と成るとは1つの魂の集合体になる事
それ
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