清太が死んだのは自己責任だが節子が死んだのは誰の責任なの?
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あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。
清太はそれを我慢しない。
徹底して社会生活を拒否するわけです。社会生活ぬきの家庭を築きたかった。
無心に”純粋の家庭”を築こうとする。
そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。
しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。
おとなもみんな清太になりたがり、自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。
社会生活はわずらわしいことばかり、出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。
清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。
現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。
もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。
全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。
清太になるどころか、未亡人以上に清太を糾弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています