俺が忠臣蔵(赤穂事件)について熱く語るスレ
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播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩はそれはそれは武士道を重んじる立派なお殿様でした 対して高家筆頭吉良上野介義央は賄賂が大好きで、その高家筆頭という立場を利用して他藩からの進物で私腹を肥やしていました 吉良「なんかこの田舎者態度悪いなちょっと注意するか。おいお前!」
浅野内匠頭「お前とはなんだ!武士の誇りを傷つけられたわ殿中でござる!(ズバァ」 そんな吉良に対し、浅野は業を煮やして吉良に対する進物を鰹節2本に抑えました 美談にされてるけどチンピラの逆恨みだからな殺人だからな それに激怒した吉良は浅野に対して度重なる嫌がらせを重ねます。例えば勅使接待役に任ぜられた浅野に対してだけ勅使を迎える場の畳替えを命じなかったり それに激怒した吉良は浅野に対して度重なる嫌がらせを重ねます。例えば勅使接待役に任ぜられた浅野に対してだけ勅使を迎える場の畳替えを命じなかったり 泉岳寺で赤穂浪士の行列に参加したことあるよ
討ち入り装束にちょんまげも付けて、刀二本差して 吉良上野介は田舎侍と小馬鹿にしてイジメを行えるような立場ではなかったとか
そもそもイジメの証拠が無くて斬りつけた際に浅野内匠頭長矩が言い放った
「俺の受けた仕打ちの数々、思い知ったか」てのがイジメ説の元になったと聞いた そんな折、勅使下向の際江戸城松の廊下で浅野が吉良に斬りつけるという刃傷事件が起きます 理由としては浅野が吉良の悪行雑言に耐えられなかった、進物の鰹節2本を例に上げ赤穂の武士道を鰹節道などと罵った事が挙げられます 刃傷の取り調べに対しても吉良は、自分から喧嘩を売ったにも関わらず自分に嫌疑がかかるのを恐れ「浅野の乱心」としか答えませんでした 勅使接待の儀をぶち壊された徳川綱吉は激怒し、浅野に即日切腹、吉良はお咎めなしという裁定を下します 綱吉さんももう少し頭を働かせてれば吉良の不手際にも気がつけただろうに…
まあ当時は身分社会だったからそれでも吉良の罰は相当軽くなってただろうけど 松の廊下の刃傷事件の第一報を赤穂にもたらしたのは萱野三平と早見藤左衛門の両名。
普通なら江戸~赤穂15日かかる距離をわずか3日で到達したという記録が残ってます 刃傷事件の報を受けた赤穂藩城代家老大石内蔵助は困惑し、籠城討ち死にか城明け渡しかの選択を迫られます 忠臣蔵的にはまだ導入の15分位までしか進んでないのだが? 土蔵の中で一晩考えた内蔵助は、吉良邸討ち入りを決定、吉良の首を泉岳寺の殿の墓に手向ける決心をします。
これに100名を超える赤穂藩家臣団も賛同、内蔵助と盟約を共にするという神文誓書を交わします 殿の一周忌を期に仇討ちを決行すると決意した内蔵助でしたが1年経っても仇討ちをする素振りを見せず京の色町で遊興三昧、放蕩無頼の生活を送る内蔵助に業を煮やした
江戸の急進派(堀部安兵衛、赤垣源蔵など)が内蔵助に直談判し、赤穂浪士は分裂の危機にありました そしてここに一通の書状が届きます。
実は内蔵助は浅野内匠頭の弟君大学公を立て御家再興を図るつもりでしたが
大学が広島の浅野本宗家に返され、ここに御家再興は絶望的となったのです。
この書状を見た内蔵助は吉良邸討ち入りを決意、神文返しを行い、どうしても受け取らぬ者だけに討ち入りの決行を伝えます そして討ち入りが決定し、討ち入りに参加したのは47名でした。
実はもう一人討ち入りに参加するはずだった毛利小平太という男がいたのですが
この男は嫁、義兄の猛反対に会い討ち入り直前に脱盟してます もう一つ
討ち入りは決定したのですが、赤穂浪士たちは吉良邸の内部を探る事ができず四苦八苦してました。
その状況を打破したのが岡野金右衛門という男
岡野は彼女であるお鶴の兄大工の勘兵衛が吉良邸の絵図面を持っている事を突き止め、その絵図面を奪取する事に成功します 討ち入りは12月15日に決定
この日赤穂浪士は3か所に集結し、現在の時間で言う所の明朝4~5時に討ち入りを決行します。
夜討と言うよりは朝駆けです
表門の指揮を務めるのが大石内蔵助
裏門の指揮を務めるのが、その息子大石主税でした 清水一学などの強敵も存在し、吉良を討つのに時間はかかりましたが
なんとか蔵の中に潜んでいた吉良を見つけることができました。
一番槍をになったのは間新六という男
そして吉良を討ち果たした赤穂浪士一党は亡君が眠る泉岳寺の墓前に吉良の首を手向け、裁定を幕府に委ねる事にします この事件の裁定に最も困惑したのが将軍綱吉
老中の意見も入れずに浅野の切腹を即断したツケを払わされるハメになった綱吉は二人の儒学者を呼び寄せ詰問します。
一人は林信篤、もう一人は法制論をもってなる荻生徂徠 直葉ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!! 林信篤は赤穂浪士助命を嘆願しましたが、荻生徂徠はあくまで法を以て断固切腹処分すべきだと進言しました。
困り果てた綱吉は朝廷の公弁法親王に意見を求めます
公弁法親王の意見は「そこまで御身(綱吉)を悩ませ苦しめたのであれば大石内蔵助という侍も以て瞑すべし(ここで死んだとしても悔いはない)」というモノでした。
これにて綱吉の考えがまとまり、赤穂浪士全47名に切腹の処分が下される事になります 感動した!やっぱ昔から語り継がれるだけのことはあるな! 最後に一つだけ
内蔵助が今日から江戸へ下る際、垣見五郎兵衛という変名を使用したが、これは実在の日野家御用人の人物である
内蔵助と五郎兵衛は同じ宿で鉢合わせし、どちらが本物の垣見五郎兵衛かという事で問答する事になったが
内蔵助が討ち入りのために東下りしている事を察した垣見五郎兵衛は、自分が偽物であるとし、本物の日野家の使用人の証である鶴の丸の御紋が入ったヘルメットを内蔵助に進呈しその場を立ち去ったというエピソードがある 罰を受けたのって浪士だけなんだ
一族郎党とかじゃないんか >>50
内蔵助の子どもたちは多分何年か島流しになってたはず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています