1812年6月、ヨーロッパ史上最大の70万人からなるフランス帝国の大陸軍はネマン川を渡り、モスクワに到達しようとしていた。
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1812年6月23日に侵攻は始まった。ナポレオンは補給を重視し25の補給大隊を編成。現地収奪に依存しない補給体制を整えていた。 ナポレオンはスモレンスクへと急行したがロシア軍は決戦を避けて退却、ロシア軍主力の東方脱出を許す結果となった。
遊撃隊となったコサック騎兵やロシア軍別動隊は伸びきったフランス軍の補給線や側背を脅かし、ナポレオンは後方や側面防御のため多くの部隊を割かざるをえなかった。兵力の分散に加え、飢え、疲労、逃亡などにより脱落する兵士が続出したことにより兵力は15万5千に激減していた。 9月14日、ナポレオン軍はモスクワ市街に入城した。この時点の大陸軍の兵力は11万であった。
ナポレオンはロシアがモスクワを焼き払うと思わず、物資や食糧が手に入ることを予期していた。またアレクサンドル1世がパクロンナヤ・ガラ(降伏の丘)で降伏すると期待していたが、入城してみると市はもぬけの殻であった。 その晩、市内各所で火の手が上がり、大火となり、大半の建物が木造だったモスクワは、多くの貴重な文化財や建造物も焼き尽されて焼け野原となった。
市内で捕虜にしたロシア兵の尋問記録から、火災はロシア軍の組織的な放火だったとされている。 フランス軍は冬を前にロシアの打倒と食糧の入手のいずれにも失敗し、ナポレオンは進退に窮した。3度に及ぶ和議提案も空しく、フランス軍は灰燼に帰したモスクワ市街で無為な時間を過ごした。
10月19日、ナポレオンはモスクワからの退却を開始した。 1812年11月始めには飢えと凍傷、行軍による疲労で兵士が死に始めた。冬が深まるにつれ飢餓と疾病、厳寒で死者・落伍者が相次ぎ、脱走兵が急増したが、殆どの脱走兵は捕虜になるか、ロシアの民兵に殺された。 11月3日には兵力は5万に減り、11月8日にスモレンスクに到着した時には3.5万に減った。 12月5日、ナポレオンはミュラ元帥に後事を託して橇で帰国した。ミュラは後にナポレオンの義理の息子だったウジェーヌ・ド・ボアルネに部隊を任せて脱走した。 1812年12月14日、フランス軍はロシア領内から駆逐された。22000名の将兵が生き延びたに過ぎない。最終的に大陸軍は60万から5千まで減った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています