今日も意味論に間する言語学の専門書を読んだぞい。
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読んだことをシェアしたくてスレッドを立てました。今日は
@言葉には内在的言語と外在的言語があること。
A人と人とが接する場合はあくまで意味を目的とせず、感情共有を目的としたやり取りもあること。
B辞書にある言葉はあくまで過去の文からの推察をしたものであって提議ではないこと。
ことがわかりましたぞい。
普段使ってる言葉って意識しないとわからないですよね? 内在的言語とは概念とか役割のようなもので表に出されないもの、外在的言語とは目に見えて存在することを指し示せるもの、なのだそう。
だから今例えば目の前に椅子があったとするならば、それは内在的言語では座ることができるもの、外在的言語では画像で示せるようなもの、なのだそうですぞ。 また例えば人魚という存在があるとするなら、内在的な言語はあっても外在的な言語はない(存在を示すことができないから)。画像で示すことはできてもそれはあくまで「人魚の画像」であって人魚ではないと言う。 例えば上に書いたものは内在的言語と外在的言語らしいのだけど、これらを従来のリンクとは異なる意味や言葉でリンクさせることができるとするならば、教育や洗脳の場面で役立てることができそうだとわたしは感じたな。 今調べたけど意味論を日本の大学でやってるところは東京外大や甲南大学があるみたいね。興味深い。 誰もウサギという単語の本当の意味を知らないって哲学の本で読んだことあるな
有限の使用例しかないから >>7
その場にいたらもちろん指し示すことはできるけど、そうでなければあくまで本や画像として情報として知ってるだけで、本当の意味で実物を認識してるわけではないからね。
そしてウサギというものの定義も調べれば調べるほどよくわからなくなるはず。なぜなら他(特にちかしい種)との境がないから。
言語学を学べば学ぶほど沼にはまりそう。 言語学を学べば学ぶほどよくわからなくなりそうってのは今の状態でも十分予想がつくけど
逆に言うたらよくわからん状態まで学ぶことができれば多くの方はそこまで考えていることはないだろうから
現在わたしの感じてるわけのわからん経験を使って、いかようにも他人に対し言語を使うことができそう、というのがこれからの見立て。
研究者ならそのあやふやな状態を科学的に定義付けてして分類できそうだなぁ。 その現場にいても無理だよ
俺「ウサギ!」(指差す)
日本語知らない奴「この耳の長い生き物のことか?何かが飛び跳ねるって意味なのか?ものを指差すときの掛け声なのか?」
いくら使用例を増やしても両者の認識が同一になることは絶対に無い >>10
確かにそうかも!
そして私は君の示した例を面白いと感じる! >>10
言葉に対する意味を共有されているはずだと思っている人ほど、そうしたやり取り(「耳の長い生物か?それとも掛け声か?」と聞かれたことに対して)すると怒るよね。
恐らく言葉の意味が当然伝わるはずだと思っていた前提があるのに意味が伝わらなかったことに対して自分が自分に怒ってるのは容易に想像つくけど。 世の中はっきりと言えることはっきりとした意味なんてありそうでもほぼないのに何で多くの人はこうもはっきりということを望み、そしてはっきり言う人を信仰するのかわたしはよくわからん。
それだけ多くの人にとってわからないことは脅威で怖いのかなと私は予想する。死ぬ恐れがあるから? 別の医学の入門書には人間の扱う言葉にはどうしても定義や限界があり、言葉を使うと自然界を科学的に切り取ることはできるけど自然は言葉であらわせられないというのがあってなるほどと思ったなあ。
それ考えると言語学を学ぶとその論理にたいして感度はあげられるかもしれないけど、一方でそれを専門的に知識を深めれば深めるほど実際に何かを外在的に示すことは難しいということなのかもわからん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています