「琵琶湖の水、止めたろか」は、下流の京都市民らにからかわれた際、滋賀県民が反撃する言葉として広く知られている。しかし、120年以上前、琵琶湖の水を実際に止めたのは、京都市の方だった。

琵琶湖第1疏水が完成した6年後の1896(明治29)年9月12日、京都新聞の前身、日出新聞は1面で「疏水第一閘門(こうもん)の防水」と報じた。琵琶湖大水害と称される豪雨で疏水に水が押し寄せ、水害を危惧した京都市は大津閘門を封鎖。山科村(現京都市山科区)村長が閘門近くに駆け付け、「閘門にて防ぎきれぬ時は全村水底に葬らるると、(市の)水利事務所員に激烈なる談判を試むる」との緊迫感も記した。第1トンネル東口にも鉄扉や土俵が設置され、封鎖は徹底的に行われた。

 滋賀県側の怒りは激しかった。7日後の紙面を見ると「大津町(現大津市)は封鎖で浸水量が増したとして京都市に対し、閘門開放を請求」したが、京都市は「閘門の開閉は市の自由で、要求には応じ難し」と拒否した、とある。府も京都市の考えを支持したことから、県は内務省に「(府の態度は)条理に背きたるもの」との抗議文を送っている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/bd9f17dfd8ce20f018d5f14ce71546a6bd884e3a