豊臣秀頼は、豊臣秀吉という人物の子どもでした。豊臣秀吉は、日本を統一した強い人でした。でも、秀頼が生まれたときには、すでに病気で弱っていました。秀頼は3歳のときに、父親の秀吉が亡くなりました。秀吉は死ぬ前に、秀頼に大坂城という大きなお城を残してくれました。大坂城は、日本で一番美しくて強固なお城でした。

秀頼は父親の跡を継いで、豊臣家という家族の長になりました。でも、彼はまだ小さかったので、母親の淀殿やおじさんの片桐且元という人が助けてくれました。淀殿や片桐且元は、秀頼を守るために、徳川家康という人と仲良くすることにしました。徳川家康は、秀吉の友達だったけど、実は日本を支配したかった人でした。

徳川家康は、秀頼が小さいうちに、自分が将軍という権力者になりました。将軍というのは、天皇という日本の王様から任命される人で、日本の軍隊を指揮する人です。徳川家康は将軍になってからも、秀頼に優しくしました。でも、実は秀頼が大きくなったら邪魔になると思っていました。

徳川家康は、秀頼が11歳のときに、自分の娘である千姫と結婚させました。千姫は秀頼より4歳年上でした。徳川家康はこれで秀頼を自分の味方にするつもりでした。でも、千姫と秀頼は仲良くなりました。千姫は秀頼を愛していて、徳川家康の命令に逆らうこともありました。

徳川家康は、秀頼が19歳のときに、京都という都市で会うことにしました。京都は日本の古い首都で、天皇や貴族が住んでいる場所でした。徳川家康はこの会見で、秀頼に自分に従うことを約束させようとしました。でも、秀頼はそれを拒否しました。秀頼は自分が豊臣家の長であることを誇りに思っていました。

徳川家康は怒ってしまいました。彼はもう豊臣家を潰すことを決めました。彼は言いがかりをつけて豊臣家に戦争を仕掛けようとしました。言いがかりというのは、本当ではないことを言って相手を責めることです。徳川家康は、秀頼が方広寺というお寺に鐘を寄付したことを問題にしました。鐘には「君臣豊楽」と「国家安康」という言葉が書かれていました。これは「主人と家来が幸せになるように」と「国が平和になるように」という意味でした。でも、徳川家康はこれを「豊臣家が主人になって楽する」と「徳川家を二つに分けて国を安定させる」という意味だと言いました。

秀頼はもちろんこれを否定しました。彼は鐘を寄付したのは、父親の秀吉のためだったからです。秀吉は方広寺を建てたことがあったけど、火事で焼けてしまったのです。秀頼は父親の遺志を継いで方広寺を再建したかったのです。でも、徳川家康は聞く耳を持ちませんでした。彼は秀頼に大坂城から出てきて自分に謝るか、大坂城から追い出されるか、母親の淀殿を人質に出すかの三つの選択肢を出しました。

秀頼はどれも受け入れられませんでした。彼は大坂城に籠城することにしました。籠城というのは、お城に入って敵から守ることです。秀頼は大坂城が強固だと信じていました。大坂城は川や沼に囲まれていて、攻められる場所が少なかったからです。秀頼は父親の遺したお金や宝物を使って、全国から戦士や武器を集めました。

徳川家康も負けていませんでした。彼は全国の大名や武士に命令して、大坂城に向かわせました。彼は自分の息子である徳川秀忠や孫である 徳川家光 にも参戦させました。徳川家康は20万人もの兵士を率いて大坂城を包囲しました。包囲というのは、敵が出入りできないように囲むことです。

こうして1614年の冬、大坂冬の陣と呼ばれる戦いが始まりました。