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2023/09/21(木) 23:52:39.102ID:pvNgnTyS0「徳川家康に仕えれば、今までの土地や城を守れるかもしれない。でも、徳川家康は武田家を滅ぼした敵だ。私は敵に仕えるのが嫌だ。」
「豊臣秀吉に仕えれば、新しい主君に忠誠を誓えるかもしれない。でも、豊臣秀吉は遠くの大阪に住んでいる。私は遠くの主君に仕えるのが不安だ。」
真田昌幸は、どちらにも決められなくて、しばらく中立の立場をとりました。しかし、天正10年(1582年)に豊臣秀吉が本能寺の変という事件で織田信長という最強の大名を倒すと、事態は変わりました。豊臣秀吉は、織田信長の跡を継いで天下統一を目指し始めました。そして、信濃国や上野国(現在の群馬県)などの東国の大名たちにも服従を求めました。
「豊臣秀吉は天下人だ。私も彼に仕えた方が良さそうだ。」
「でも、徳川家康はまだ強い。彼に敵対すれば、私の土地や城が危なくなるかもしれない。」
真田昌幸は、またもや迷ってしまいました。そこで彼は、自分の息子たちに相談しました。真田昌幸には三人の息子がいました。長男の信之(のぶゆき)、次男の信繁(のぶしげ)、三男の幸隆(ゆきたか)です。
「父上、私は豊臣秀吉に仕えるべきだと思います。彼は天下統一を成し遂げるでしょうから、その恩恵を受けられます。」
「父上、私も豊臣秀吉に仕えるべきだと思います。彼は武田家の旧臣たちを厚遇してくれますから、その恩義に報いられます。」
「父上、私は徳川家康に仕えるべきだと思います。彼は東国の覇者ですから、その力を借りられます。」
真田昌幸は、息子たちの意見を聞きましたが、やはり決められませんでした。そこで彼は、自分が持っていた六文銭という家紋の入った旗を二つに切りました。そして、長男の信之に一つを渡し、次男の信繁にもう一つを渡しました。
「信之、お前は徳川家康に仕えるがよい。信繁、お前は豊臣秀吉に仕えるがよい。私はお前たちのどちらにもつかない。私は自分の土地と城を守るだけだ。」
「父上、それではお互いに敵になってしまいます。それでもよろしいのですか?」
「それが運命だ。お前たちは自分の道を歩め。私はお前たちを見守るだけだ。」
真田昌幸は、息子たちに別れを告げました。そして、自分は上田城に籠もりました。信之は徳川家康に仕えて松代城(現在の長野市)に移りました。信繁は豊臣秀吉に仕えて沼田城(現在の群馬県沼田市)に移りました。三男の幸隆は父とともに上田城に残りました。
こうして真田氏は、豊臣大名と徳川大名に分かれました。その後、関ヶ原の戦いや大坂の陣などで、真田氏は激しい戦いを繰り広げました。しかし、真田氏はその戦いで勇敢さや知略を発揮し、歴史に名を残すことになりました。