君が自分と同じ人間にすぎない裁判官を信頼できないというのを煎じ詰めると、結局、人間は信頼できない、自分すらも信頼できないということになる。そうしてひとたび人間が信頼できないことになると、世の中全体が全く動きのとれないものになる。例えば自動車を運転するのだって、向うから歩いてくる人はたぶん合理的に行動するであろうと思えばこそ、安心して進んでゆける。これに反して、何をするか分からなければあぶなくて進めない。だから、なるほど人間の中には一面多分に不合理な分子が含まれているけれども、他面において合理的な方面もある、否、むしろ合理性が人性の基礎をなしている、だから自分の不合理から類推してやたらに他人の同じく不合理なるべきことを恐れるよりも、自分の合理性から推論して他人も同じく合理的なるべしと考えてかかるほうが万事が円滑に動く……。

近代人は自由平等思想の結果すべての者を自由平等の人間としてしまった。そうしてわれわれは互いに自分のうちにある不合理的分子から推測して他の人々の不合理を恐れるようになった。役人だって自分と同じ人間だ、してみると何をするか分かったものじゃない、こう心配してみると何でもかでも法律を作って万事を法律ずくめにしなければ承知できなくなる……。 ──要するにデモクラシーは法律をたくさん作るものだね。 ──確かにそういう傾向はある。けれどもデモクラシーのもとでも人間が他人の悪を恐れずして善を信ずるようになり、他人も自分と同じようにだいたい合理的なものだと考えるようになってみると、むやみに法律を作って役人を縛ることの愚なることに気がつく。