高校2年生の春、美奈は突然、学校に行くことをやめた。

「虐められたのか」と頻繁に尋ねていた父親も、嫌なことがあったわけじゃない、としか話さない娘に諦め気味で、最近は何も言わない。
母親の広子は「そういうこともあるのよ」と美奈が自ら心を開くのを辛抱強く待った。
不登校と言っても部屋に引き篭もるわけでもなく、午前中はリビングでのんびりして、午後には飼い犬と散歩をしたり、母親と買い物に出掛けて過ごした。
夜、夫が美奈を案じる言葉を口にすると、広子が「美奈は健康的な不登校だから大丈夫」と締めくくるのが半ばお決まりになっているのだ。



「健康的な不登校」が始まって半年を過ぎた頃、美奈の同級生が訪ねてきた。
いかにも運動部といった、日焼けした逞しい体躯の少年の来訪に広子は驚いたものの、

坂上と言います、美奈さんと同じクラスです、と緊張しながら礼儀正しく振る舞おうとする彼に、しかし広子は嫌な印象を抱かなかった。
美奈は「あ、本当に来たんだ」と笑っている。
「お母さん、ちょっと出掛けてくるね。大丈夫、2時間くらいで戻るから。喫茶店で話すだけ」
「家に上がってもらったら?」
「坂上くんがまともに話せなくなるから」
その屈託ない様子に少し安心し、美奈を送り出したものの、広子は気が気ではなかった。



坂上という少年は広子の恋人なのだろうか。 不登校と関係があるのだろうか。
まさか、娘に限って不埒なことはあるまい。
いや、そうとは限らない。親の想像だにしない世界が美奈たちにもあるのだ――。
やきもきしながら落ち着かずに待ったが、美奈は2時間後にあっけなく帰宅した。



「来週から学校行くから」
帰ってくるなり美奈はそう言った。
「あなた、さっきの男の子と何か――」
「やだな、何もないよ。心配して相談乗ってくれてたんだ。相談っていうか雑談」
美奈はおかしそうに話す。
「今日ね、告白されたけど断っただけ。坂上くん、野球部なんだ。野球には技術も必要だけど、私たちくらいの年齢だと基礎トレーニングがもっと大事だって。
お前の不登校も基礎トレーニングみたいなものだろうって。私、この半年でマッチョになったみたい。心配かけてごめんね」



翌週から美奈は、何事もなかったかのように学校へ行き始めた。
――美奈は大丈夫。ちゃんと大人になる。
昼間、ひとりになったリビングで揺るぎなくそう思えた自分に「私も少しマッチョになったかな」と独りごちて、広子は思わず微笑んだ。