「ねえ。あれって熊じゃないの」

私達の歩く未舗装の山道の先に何か黒い塊がもそもそと動いているのが見える。隣の悠斗は「ああ、熊だな」とそっけなく答えた。

「やばいじゃん。逃げた方が良くない?」
「大丈夫、大丈夫」悠斗は暢気に言う。

「熊は基本的に人間を恐れているからな。近付いたら逆に向こうの方が逃げていくよ」

確かにそう言われるとそんな気もする。こういう時に頼りになるから私は悠斗のことを好きになったのだ。
自分が恋していることを改めて実感し、にこにこしながら歩いていると、もう熊の目の前まで来てしまっていた。
こんな近くまで来て大丈夫なのかな。心配になって横にいる悠斗に視線を移すと、丁度突進してきた熊に突き飛ばされているところだった。
山道を外れ、急斜面をゴロゴロと転がっていく悠斗は、大きな岩にぶち当たって止まった。

「だいじょうぶー?」

上から声をかけるが、痛みに悶えているのか悠斗はしばらく反応しなかった。
もう一度呼びかけると、ゆっくりと顔を上げ「これが大丈夫に見えるか?」と力無く返答した。
確かに手足は変な方向に曲がって、あちこち血まみれで、まるで打ち捨てられたマネキンみたいになっている様はとても大丈夫には見えない。
でもこの場合の「大丈夫?」という呼びかけは、怪我の具合はどの程度ですか、意識はありますか、救急車を呼びますか、その必要はないですか、
という意味を含んだものであって、実際問題として大丈夫であるかを尋ねているわけではない。
その程度のことを読み取れないなんて悠斗は今流行りの発達障害というやつなのだろうか。
無事に下山出来たら検査に連れていってあげよう。

と、その瞬間私の世界がぐるぐると回り始めた。どうしようとパニックを起こしかけ、どうにか落ち着きを取り戻すのに要した時間はほんの数秒ほど。
世界ではなく自分の方が回ってるんだと気付くのと大きな岩にぶち当たるのがほぼ同時だった。