織田信長ってアイツが強いんじゃなくて鉄砲が強かっただけじゃないの?
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まるで田中勝春がディープインパクト乗ったら勝てるような言い草だなまあ勝てそうだけど >>4
武豊がハルウララ乗っても勝てないしなあ…… >>5
部下のハゲが強かっただけでナポレオンの戦績はわりとぼちぼち 信長は富裕な土地と尾張敵大名が全て一族だったから取り込みやすかったのがデカい 部下とホモセしたり黒人を贔屓したりやってる事ポリコレだよね 元就。開始1.5万石です、井上一族に専横されてます、家督継いだは20代後半です、一門衆皆無です
周りは小さな国人だらけなので各個撃破大変です、コイツら潰しても当時最強大内と5指に入る尼子に囲まれてます
家柄カスだから上手く出世して織田乗っとったサ猿や猿を乗っとった狸よりヤベーよコイツ
しかも火力時代の前 信長の鉄砲隊って、三列だったんだろ
最前列が撃ったらすぐ二列目に代わって、二列目が撃つ
そしたらこんどは三列目が撃って、次に準備できた一列目がまた撃つ、って具合に
当時の火縄銃は火つけて撃てるまでのタイムラグがあったからこれでその問題を解消した。
そして武田の軍勢は壊滅的打撃をこうむった。 >>12
周りが小さな国人だらけってのはむしろ潰しやすいんじゃ? >>16
長慶って武田信玄と同い年だから前の二人に比べるとだいぶ若い >>17
何処かに構ってると後ろから殴られかねんので戦するにしても周囲への配慮が大変なんじゃ >>17
全然逆、信玄の信濃制覇が手間取ったように家系が違うと
各々が領民動員して抗戦すっから大変やねん
デカい統一大名がいる方が本丸との交渉で一気に傘下にしやすい で、あるか。
イッチの信長像っておおらかだな
俺は社会の時間に雑談で教師に信長の気難しさを聞いて
彼の気に入った返答をしなければ殺されると脅されたが 島津も毛利も長宗我部も地元制覇に長年掛かってるんよな
以降は一気に勢力拡大、地元の先祖代々の土地守らなきゃ!勢を潰すのはホンマ骨折れる >>22
島津は大隅と日向まで自分の地元って嘘つくから ある程度纏まってくれてる方が一網打尽しやすいんよな
纏まってないと1を潰して領国化、2を潰して領国化、3をの最中に1や2の残党が結集みたいな感じになる 俺なら火縄銃じゃなくてブローニングM2を三段並べて掃射するね 織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育において「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています