「君が代」の正しい解釈がこれ。これでも国歌に反対するやつおる?
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| / ヽ、_/~ヽ、__) \ \ 「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった[1][2]。小学校の国定修身教科書には「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)と、また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された[3][39]。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された[40]。
第二次世界大戦後
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第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した[41]。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め[41]、1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法公布記念式典で昭和天皇・香淳皇后出御のもと「君が代」が斉唱された[42]。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された[42]。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した[43]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/君が代 古今和歌集だろ?
君が代=天皇の御代の解釈でなにか問題あるからヘンテコな解釈するのなんなの?
堂々と天皇崇拝の歌だってことでいいだろ 意味としてはイギリスのゴッドセーブザクイーンに近いと思ってた ツイネタで立てるアフィカスうぜぇ
ツイで勝手にやってろって感じ >>5
イギリスなんてスコットランドの反乱軍をぶっ潰せみたいな歌詞だった記憶 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています