脳みそ「死にたい」本能「死ぬの怖い」
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
どっちも脳みそであり本能ってわけではないのか
前者は理性? 脳みそ「死にたくない」肉体「どんどん老化して死んでいくよ~」
こっちのほうが理不尽だろ 願望が満たされたときの生理的な報酬を想像するから身体がそれを求める事ができる
死は身体が知覚できる感覚ではないから目的にはなり得ない 負の現状から解放されるっていうマイナスからゼロに向かう報酬があるのでは
天敵を目にしたときに走って逃げるときと一緒で 脳みそ「生きたい」
本能「生きたい」
俺「しにたい」 >>12
理性は論理的に物事を考える力のことを表してる
例えば三平方の定理の証明とか三平方の定理知らない中学生でも丸一日考えれば思いつくものだが、そういう教えて貰ってもないのに答えが一致するのはなぜかと問われたときに昔の哲学者はそれは人間はみな理性という能力を持ってるからっていう風に考えられた言葉だから
時に、なぜ理性が本能の対となり転じて道徳規範を意味するようになったかっていうと実はこれは理性の原型の言葉に由来してるんだよね
続く というのも、元々は理性はその英訳のreasonじゃなくてconsciousがあてられる言葉でこれは意識という意味で使われることが多いけども良心という意味もあって、この良心と同義のものとして使われていたという歴史があって、この良心も現在でいう良心とは微妙に違うのだが、大体ー屁理屈を言えばどんな論理でも否定できるけど良心のために正直に相手が正しいことを認めるーみたいな状況で使う良心のことを表してて、それが道徳規範の意になったんじゃないかと思う でも本能は理性について本格的に語られるようになった心身二元論でキリスト教的な要因もあって肉体に取り憑いている悪しき欲望の意味で理性と対になったこともあるが、そういう話もある程度であり、カント以降は概して表象とか悟性とかの対で使われてることが多いイメージ >>22
>>16
>理性が本能の対となり転じて道徳規範を意味するようになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています