●●●昭和四九年度司法試験合格者 喜びと戦績を語る●●● 最年少合格者の体験記
東京大学 山口厚

 九月三〇日。法務省の中庭で合格者の中に自分の名を見つけた時、私は、うれしかったには違いないが多少それとも違う感じをいだいた。ほっとしたというのとも違う気持ちである。何だか「あっけなく」ここまできてしまったという感じなのである。自分の実力の程度はわかっているつもりだけに、ほんとうに合格してしまってよいのかと思われたのである。私は、今年、初めて受験して合格してしまった。ほんとうに運がよかったと言える。編集部の方に「体験記」の執筆を依頼された時も、果たして私の書くものが、「合格体験記」たりうるのかとの気持ちもなくはなかった。私は、種々の苦労の中で合格をかちとった人々とは異なり、比較的恵まれた環境の中で勉強してこれたから、これといった苦労話もないし、二〇才という年齢にしても、参考になりうるような事は書きえないのではないかと思われたからである。しかし、私がペンを執ったのは、この程度のヤツでも「合格しうる」のだということを解ってもらい、若干なりとも参考になれば、と思ったからである。

私は、昭和四四年、東京・目黒区の中学校から「受験校」東京教育大学付属駒場高校へ進学。いろいろと動揺もあり、一時は本気で、大学で語学を専門にやろうと思ったこともあったが、この頃から、中央法学部に在籍していた従兄の影響等や、漠然とした法曹へのあこがれもあって、法学部を志望するようになった(そして、司法試験も考えるようになったのである)。大学は、高校の環境もあり、迷わずに東大を志望する。

昭和四七年。東大一本しか受験しなかったが、幸いに合格。四月には、東京大学教養学部文科一類の学生となった。ストライキのために若干遅れたが、講義が開始。法学の講義の時の先生の、早くから司法試験のための特別の勉強はしない方がよい、との話を守ったためもあり、また語学の勉強や、経済学の勉強がおもしろいこともあり、秋休み頃まで、全く司法試験のための勉強はしなかったのである。

しかし、まわりの人の中で憲法の本を読み出す人が出たりして、秋休み頃より、シビレをきらした形で、憲法Ⅰ・Ⅱを読み出した。しかし、「法律の本はなんと読みづらいのか」という感じしか残らなかった。現在記憶がはっきりしないが、二冊を一回通読したところで、中断という形になったと思う。学内試験の準備に追われ、語学に追われたのである。

昭和四八年四月。いよいよ、憲・民・刑の専門の講義が開始。これに合わせて、春休みから三科目の教科書を読み出す。とにかく民法は、我妻講義を読み始めたのだが、難しいやら、うんざりするやらで、とうとう、担保物権で中断。薄い本に乗りかえる(現在でも、我妻講義を基本書にしている人には頭が下がる)。また、友人と憲法の判例等を読みあう等の勉強もやった。一年の時に、本を読んでいたので、憲法に若干余裕があるという程度であった。本を読んでも、時間がたつとすぐ忘れる、わからない、といったぐあいで、司法試験までの道のりの遠いことをしみじみと感じさせられた。それに、私は、サボるということが出来ないタチ(?)なので、マジメ(?)に授業には出て、語学の予習をやっていたために、法律書を読む時間はあまりない。語学がなければどれだけよいかと思うほど、「単語調べ」に精を出したのであった。でも、どうにか夏休みが終わった時点で、一通り、三科目は読んだという感じを得ることはできた。若干ウンザリしながらも。

秋休み明けから、友人にさそわれるままに勉強会を作る。これは非常に勉強になった。疑問点がはっきりしたり、新たな興味が出てきたり、これで、法律学というものが、少々好きになれたような気がする。この頃から刑法が好きになった。団藤先生のわかりやすい講義のためもあったが、理論の着実な論理性にひかれた。それもこの勉強会で得たことである。

憲・民・刑が一通り読めたという気持ちからか、この一〇月頃より、刑訴にも手を出したわけである。しかし、一、二度通読したのだけれども、よくわからないし、興味もうすれていく等で、ほとんど頭にはいらない。この頃は、とにかく、団藤先生の刑法理論について、いろいろと読み、考えるのが、「おもしろく、楽しかった」という位で過ぎてしまうことになる。