神は我をお望みになった
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思えば私たちド底辺の──それこそ、童貞チー牛陰キャぼっちである「俺たち」は、社会より蔑まれこそすれ、そのような対象を社会に欲せられたが故に、こうして存在意義を保っているのだ 何事にもバランスというものがあるのだ。穀潰しには穀潰しとしての、できそこないにはできそこないとしての役割を神はお与えになった それこそ、その役割とは、社会やまして他人である個人になにかを「与える」ようなものではなく、あまつさえ「与えられ」「奪い」そして「奪われ」──そのような、いわば社会という巨大な機構の歯車についた錆として、私たちは錆なりの意識と世界を持っているのである
これらは全て、偶然ではなく必然なのだ であるから極論するならば、私たちの特性である「社会から見て意味が無い」「むしろ弊害である」という事実こそ私たちの存在意義であり、その中でちいさな快楽を見つけることが、生きる目的なのだ すなわち神は我をお望みになった。幸い、神の慈悲に縋り斯様に半・ニート生活を営むことが(今現在に於いては)許されているのである。仮にどのような死に方をしようと、それも又、「彼ら」に望まれ、機構として確実に組み込まれたものである以上、また、天という絢爛な天井に覆われ、草木という壮大な絨毯が我を支えているこの世界に於いては、消して「望まれた」運命に抗ってはならないのである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています