0001以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします
2022/03/03(木) 14:18:22.267ID:quTJvcfO00303愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。
それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。
次の日も二個、三個、四個と買って飽きるまで食べる。
そして、オレンジに飽きる。
もはやおいしくはない。
次はリンゴにしよう。
彼はリンゴを食べる。飽きるまで食べる。
次はバナナだ。バナナで同じことを繰り返す。
ここで、智者だったらどういう経過を辿るのかね。
その人は、オレンジに飽きたとき、
「何故、私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。
そして、
「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」
という考えに至るだろうね。
そして、リンゴに挑戦するとき、
「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ておこうじゃないか。」と決心する。
そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、心の変化を理解していく。
そうするとね、オレンジとリンゴ、これくらいで『飽きる経験』は済んでしまうわけだ。
飽きる経験が済んでしまうから、次のバナナまで行かない。
行く必要がないんだ。
オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。
例えばブルーバード、例えばスカイライン、例えばシビック。
初めにブルーバードに乗っていてね、飽きてスカイラインにする。
次はシビックにしてみる。
これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。
異性について考えても同じだよ。
A子さん、B子さん、C子さん…と心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。
私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解できたならば、
車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。
その時、自ずと悟りが訪れます。
急に"悟り"なんて言葉が出てきてびっくりしたかな?
オレンジや車と悟りが、なにやら釣り合わないような気がするかもしれない。
しかし、悟りとは心の動き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかを、
客観的に見て理解できる状態のことなんだ。
いいですか。
これが悟りへの道だ。