ゴーストライター騒動以前にした批評(一部抜粋)

「苦痛に耐えかねて、絶叫し、のたうち回り、悶絶する、あるいは絶望的な状況で何かにすがりたいと独り静かに祈るような、様々な音楽の身ぶりはある。
しかし、それらは極めて個人的な感情の表白であり、かなり自閉的な音楽のようにも聴こえる。
もっと普遍的、根源的な問い、例えば人間はなぜ苦しまなければならないのか、またどうして原爆のような無差別殺戮をする兵器を生み出し、使用してしまったのかというような、深い葛藤や煩悶を、私はこの作品に感じることはできなかったのである。

もちろん、彼の曲はそれなりによく考えられてできており、調性音楽ならではの美しさに基づいた直接な感情の吐露には人を惹きつける魅力があると思う。
しかし、中世ルネサンスからマーラー、ショスタコーヴィチまでの過去の巨匠たちの作品を思わせるような響きが随所に露骨に表れるのには興ざめするし、終始どこか作り物、借り物の感じがつきまとっているため、音楽の主張の一貫性、真実性が乏しく、作品としての存在感は希薄になってしまうのだ。

音楽自体にその長い演奏時間にふさわしい強く深い説得力を持たせるのではなく、性急に苦痛を告白し、悩んでいる自分に陶酔し、さらに聴き手の同情を誘う。
時にはバッハ風、時にはマーラー風の美しい響きの瞬間も随所にあるが、それらが刹那的な感動の域を超えることがないのは、おそらく作曲者の中にある過剰な感傷癖のためではなかろうか。

特に佐村河内氏のこの作品の場合、専らムード的に響く音楽の刹那が人を感動させているようなのである。つまり、交響曲的な構築性に基づく説得力ではなく、ムード音楽的な感覚的刺激が、大きな効果を挙げていると思える。そこに作曲者の病苦だとか、副題のイメージが結びついて、効果は増幅されるわけだ。」