10歳で即位し、父の後水尾院が年老いて政務から遠ざかるにつれて、若き霊元天皇が朝廷運営を主導していく

しかし、強引な政権運営の上、近習の若い公家達と乱痴気騒ぎ・乱行を繰り返し、関白・近衛基熙とも対立を深め、江戸幕府からも強く警戒される

院政を開始するが、幕府から強い警告を受け、ついに院政を停められる

その後、公武の協調関係が深まり、宝永六年、息子の東山天皇が35歳で急死したのを受け、幕府から要請を受け、院政を再開する

享保十七年、崩御 79歳