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2024/05/08(水) 06:38:04.560ID:fFQryupu0実際、クエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)の上映時間161分は、彼自身が編集権を持っていながら、いくら何でも長すぎます。140分もあれば充分だったでしょう。かりにわたくしがその製作者だったら、『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007)の上映時間113分も、語られている内容としては上映時間100分を切れたはずですから、あと15分ほどは短くできたはずだといっていたでしょう。そうすれば、観客に、もっと見ていたいという気持ちを起こさせることができたはずなのですが、最近の作品のほとんどは、そうした期待を起こさせてはくれません。むしろ、いったいいつ終わるのだろうかというきわめて不健康な問いばかりが見ている自分をいらつかせるのです。
わたくしが映画を見始めた1950年代では、ほとんどの作品が90分で完結していました。『デス・プルーフ in グラインドハウス』。これはタランティーノの作品としては比較的短いものでありながら、やはりかったるく思えてなりませんでした。実際、現代においても、まともな映画作家のほとんどは、90分~100分で充分に語りきれる物語を撮っているはずなのです。ゴダールを見てごらんなさい。彼はほとんどの作品を90分で撮りきってみせています。
いうまでもなく、その上映時間の途方もない長さが正当化される作品もないではありません。たとえば、ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』(1973)の上映時間220分を長すぎるとはまったく感じませんし、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(1975)の上映時間230分も長すぎると感じることもありません。また、コッポラの『地獄の黙示録』(1979) 特別完全版の上映時間203分も、決して長いとは感じません。ところが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の上映時間161分は無駄に長く感じられてしまう。時間的に弛緩しているという印象を免れがたいからです。そのことをだれも指摘しないので、彼は増長してそれでよいと思っているのでしょうが、それは大きな問題だと思います。ですから、新人監督たちにとどまらず、タランティーノに対しても、たとえばアイダ・ルピノの上映時間71分の『ヒッチ・ハイカー』(1953)を見てから映画を撮れといいたくなってしまいます。少なくとも、大学の映画学科などでは、上映時間に対するより真摯な意識を教えねばなりません。