なんで仏教って宗派いっぱいあるの?
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すべての人に教えを広めるなら宗派で別け隔たらダメじゃん
キリスト教やイスラム教みたいに教えに宗派関係なくさせないと 日本人は白米好きだけどキムチで食う時もあるし、納豆で食う時もあるし、海苔巻く時もあるだろ
つまりそういうことよ >>7
それでなんで宗派が分かれちゃうの?
人類って悲しいよ 日本の場合はどうやってお金を払わせるかの違いでしかない
宗教法人のくせに相場があるゴミ宗教 正当な教えは原理主義
仏教は原始仏教
キリスト教はプロテスタント
イスラム教はスンニ派 そもそも前提が末法思想に基づいてるから
お釈迦様の教えの真意はもう現代の私達には伝わらないって考え
その上でじゃあどうやって助かるかというアプローチの仕方が違う
基本的にはお釈迦様の教えの真意がまだ伝わってた頃に悟りに至ったとされる阿弥陀にお願いする形になる まずキリスト教とイスラム教がユダヤ教宗派とも見なせる >>8
お経は原点だけでも著者が数字人くらいいるぞっとw 正当な教えほどアナキズム(無政府主義)
仏教は侘び寂び乞食道(原始仏教)
キリスト教はアーミッシュ生活(プロテスタント系)
イスラム教はカリフ主導アナキズム すべての宗教の基礎は同じ
これを理解できないから宗派が発生した 金持ってる奴じゃないと修行出来ないから救われないって時に御経読むだけとか手軽なのが流行ったから イスラム
神が預言者に与えた一言一句が正確に残っているので異論がでない
仏教
悟りに至るまでのプロセスの記録が全くなく弟子や知人が勝手に捏造した 仏陀が生きてた2568年前に「こんなんじゃダメだ。輪廻転生(´・д・`)ヤダ!」
と思い立って3-4人の師匠に弟子入りしてたんだけどこの3-4人の師匠の
教えが大乗・小乗・密教なんだよ。そこから欲深坊主がどんどんと たとえば東洋の三教の基礎
道教は道(タオ)を重んじる。道=ざっくり言うと心
儒教は忠を重んじる。他人ではなく己の心に忠する
仏教は空を重んじる。実体なき心のバランスが大切 仏教ってヒンドウー教の坊さんの一人(釈迦)が離脱して作ったもんだろ?
歴史の深さそのものが違うんじゃ ブッダ「権力と財産はぜんぶ捨てて乞食生活しよっと」
キリスト「金融はよくないよ貨幣経済そのものが良くないよ」
ムハンマド「1本のサーベルと少量の麦と絨毯一枚で生活は十分」
開祖となった聖人の思考は皆同じ ヒンドゥー教はさまざまなヨガとオカルトを取り入れた総合的な宗教 ガチ勢向けの天台宗から庶民向けにゆるい宗派がいろいろ派生していった >>27
ヒンドゥー教の元となったバラモン教の本流から外れた諸派の一つが今の仏教 仏教は原始教典みたいなもんは存在しないからしゃーない
釈迦は一切書物とか残してないから >>32
諸派じゃない
バラモン教を否定したのが釈迦 仏陀は散々酒も暴食も女遊びも一通り経験したあとに「人に快楽なぞ不要なのだ」キュピーンとか言って悟り目指したイカレだから
オウム真理教の麻原彰晃がなにかの間違いで捕まらなかった世界線でオウム真理教が栄えたみたいなもん >>36
こういうのが上澄みだけすくってわかった気になってる典型例
お勉強が足りない バクティヨガだったかな別名グルヨガ
グル(司祭)を立ててその教えを乞う
このやり方は依存的で危険性がある
麻原彰晃のような人物が必ず出てくる
だから釈迦もオススメしなかったけど
周りから頼まれて仕方なく教祖になる
教祖になったときに釈迦は分かってた
いずれ教えが崩れて末法の世がくると 釈迦の本当の教え
世俗から離れて乞食になりなさい
徒党を組まず独りで学び生きなさい
経典の類いにすがってはいけません
誰かにすがってもいけません
オカルトの話は一切しません
経典も団体も崇拝も布施も葬儀も全否定して本来は金儲けとは完全に無縁 帝国に負けたあとのイゼルローン自治政府みたいなもん 「うちの宗派だと楽して極楽行けます」で張り合った結果 本当の教えに対する凡人の思い↓
乞食なんて嫌だ他人の目が気になる
独りは寂しいからムリ集団に属したい
文章化された指標が欲しい読みたい
指導者に依存したい教えを乞いたい
オカルトを信じちゃう困ったら神頼み
そして宗教を利用する悪人が歴史のなかで幾人も出てきて教祖を名乗った >>42
いや一神教と違って当時のままの経典なんて残ってないやん 宗教の原始形態はフェティシズム、アミニズム、マナイズム、トーテミズム、シャマニズム、祖先崇拝、祖霊崇拝、自然崇拝、ハイゴッド崇拝とかいろいろ言われてる
そんな感じのやつと政治が絡んでいろいろ宗教が産まれるけど色んな人にとって都合が良い普遍宗教(頑張れば誰でも救われるみたいな選民思想が弱めの宗教)はミームとして広く世界に台頭する
とはいえ土着信仰を否定して無理矢理広めようとすると反発されたりするから力で無理矢理広めるだけじゃなくてちょっと土着信仰にすり寄って広めたりするインドはその傾向が強い キリスト教もイスラム教もユダヤ教からの分派なんだが・・ 神道「まあ神様いっぱいおるし適当にどぞー」
神道「え?家のそばの神社と祭神違う?かまへんかまへん」 >>47
経典残ってないけど弟子を沢山作ってその弟子に口伝で教えたからおk
経典ってそんなデータ必要なんですか? 子供を観察するとよく学べる
その無垢な姿から自分たちの素性も知れ
その依存的な姿から自分らの迷いの元も知れ
その自我の芽生えから自分たちの苦悩が溜まった経緯も知れる
そういった心の右往左往に正しい教えを施すものが本来の仏教
仏教では自我なんて思い込みだと良き、依存はイクナイと教え、素に戻す >>49
× アミニズム
○ アニミズム
(Anima+ismによる) >>56
ごっちゃになるわ
アニメのアニミズムなんだよな 経典を残さない理由
これは実に簡単なこと
教えを文章化するとそれが規範化して人が規範に依存して本質を見失うから
たとえば集団生活を送る上で各々に各々の都合があり衝突は毎日起きる
本来なら話し合いお互いがお互いの状況を把握して気づかえば良いが
次第にそれが面倒になり規則を設けようとなり規則ができてしまうと
今度は規則に従ったまでだ、という名分で規則外の気づかいをしなくなる
こうなると人々は規則にだけ従順になりお互いの心を蔑ろにしはじめる
こういうありきたりな状況を避けるため、教えを文章化して残さなかったし
そもそも集団生活なんて辞めなさい独りで学び独りで生きなさいと説いた 仏陀「よっしゃ! 悟り開いたぜ! だけど皆に説明すんのダリぃから(どうせわかんねーだろうし)このままサヨナラしようっと!」
梵天「待て待て待て待てーっ! 皆に広めてからサヨナラしてくれ!」
仏陀「えー……しょうがないにゃあ」
これが後に梵天勧請と呼ばれる出来事である 正しいヨガの教え
マントラヨガ(虚空蔵求聞持法など)
同じ言葉を連呼すると頭がトランスして変性意識に入り自我と思考が止まり
記憶にアクセスせず認識も止み、ありのままの素の状態に心を置ける
↑これを誤ったニセの教え
ただナンミョウゲキョゲキョ言えばいい唱えれば御利益がある←ある訳ない >>57
阿含経に含まれてない教義はすべてデマカセを含む有象無象の類 >>61
偶像崇拝禁止と同じ発想
師の悩むポイントは時と場所を問わず同じなのだろう 五感のすべてが頭部に集中しており、思考を行なう脳が頭骨のなかにある
よって自分という感覚がまるで頭部にあるかのようにして凡人は生きてる
この感覚が自我を形成して思考の連続性に過ぎないそれを自己と思い込む
これを止ませ悟りに至らせる方法が各種ヨガであり仏教の行法である ルールなんて無くていいじゃん
お互いがお互いの心と向き合おうよ
あと基本的に皆んな独りで生きようぜ
だって結局は帰属意識や尊敬の念も依存でしかない未熟な心だろう
って聖人は言いたいわけ
だから原理主義はアナキズムなわけ
自分を崇拝しろなんて絶対に言わない
布施くれ、団体作れ、教義を学べ、儀式しろ、階級がある、なんて全部ウソ まだ幼い子供に対して
まだ未熟な若者に対して
悩み多い大人に対して
生活は自立できても心が自律できない者らに対して
本当の教えは耳に痛い話しとなり
以前として面倒な社会生活との向き合いの中にいて乞食にはなれず
こうして疲れ果てどこぞの宗派宗教に吸い込まれてしまうのが凡人 結局権力闘争になるんだよ組織化すると
で喧嘩して分裂していく 仏典がめちゃくちゃ多いからな
で、仏典ごとに書いてることが食い違うからどれを優先するかで宗派が割れる 聖人は難しいことは言わず簡単に説く
聖人は悪くないけど言うことがキツい
言葉は優しくても心にグサグサ刺さる
悪の教祖は悪いけど
それを担ぐ依存的な凡人も悪い
聖人は独りぼっちで穏やかに生きてる 仏教の新しい解釈広めて承認欲求満たしつつ金も稼いでやろうってやつがそれだけいたってことでしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています