燕の刺客: 荊軻伝
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Act 1: 荊軻、燕に舞う
燕の国、下都門の前で、一人の男が門番に呼び止められていた。男は痩身で、長い黒髪を後ろで結い、剣士らしい鋭い眼差しをしていた。彼の名は荊軻（けいか）、諸国を放浪してきた剣士である。
「ここの者ではないな。用向きは何だ？」門番が怪しげな目で荊軻を見る。
「この国で剣術を教え、遊説術を学びたいと思っています。どうか、入国を許可していただけませんか？」荊軻は穏やかな声で答えた。
荊軻はかつて衛の国で生まれ育った。幼い頃から剣術の才覚を示し、諸国を放浪してはその地の剣術を学び、剣士として腕を磨いてきたのだ。彼は剣術だけでなく、弁舌の才にも恵まれ、遊説術を極めるべく様々な国を渡り歩いてきたのだった。
門番は荊軻の話を聞くと、少し考えてから答えた。「この国で剣術を教えるには、まずは王宮の剣術師範である田光先生の許可が必要だ。あちらへ行って話をしてみろ。」荊軻は礼を言い、門番に教えられた方向へ歩き出した。
王宮は下都門からそう遠くなく、荊軻はすぐに辿り着いた。広大な宮殿の前に立ち、荊軻は感嘆の声を上げた。ここが彼の運命を変える場所になるとは、この時はまだ知る由もなかった。
荊軻が宮殿の門番に剣術師範の田光を訪ねたいと告げると、門番は快く通してくれた。田光はすでに荊軻の噂を聞いていたようで、快く迎え入れてくれた。
「ようこそ、荊軻殿。あなたの剣術を見せてもらえるかな？」田光は白髭を撫でながら、優しい眼差しで荊軻を見つめた。
荊軻は田光の前で剣を振るった。風を切る音が静かな宮殿に響き渡る。田光は目を細めて荊軻の剣術を見守り、やがてゆっくりと拍手をした。
「素晴らしい。あなたの剣術は確かに優れている。これからはここで剣術を教えてほしい。」田光は満足げに頷いた。
荊軻は燕の国で剣術を教えながら、遊説術も学んでいった。彼はこの国で、生涯の友となる高漸離（こうぜんり）と出会う。高漸離は筑（琴のような楽器）の奏者であり、その美しい音色で荊軻の心を癒した。二人はよく宮殿近くの湖畔で時を過ごし、剣術と筑の演奏を互いに披露し合った。
そんなある日、荊軻は田光から意外な人物を紹介された。燕の太子の丹（たん）である。丹は荊軻の剣術と弁舌の才を聞きつけ、彼に興味を抱いていたのだ。
「荊軻殿、私はあなたの力を借りたいのです。」丹は真剣な眼差しで荊軻を見つめた。
荊軻は丹の依頼を聞き、歴史に残る大事業に身を投じることになる。それは、秦王政（しんおうせい）（後の始皇帝）の暗殺だった。 Act 2: 暗殺計画
荊軻は田光から丹の復讐の理由を聞いた。丹はかつて人質として秦の国に送られていたが、秦王政に命を狙われ、辛くも逃げ延びて燕に帰還したのだった。
「秦王政は残忍な男です。私だけでなく、多くの者がその手に掛かっています。荊軻殿、どうか私の復讐を手伝ってください。」丹は懇願した。
荊軻は丹の復讐心に共感した。彼は剣士として、弱きを助けるために剣を振るうことを信条としていた。
「分かりました。私にできる限りのことをしましょう。」荊軻は静かに頷いた。
荊軻は丹の依頼を受け、暗殺計画を練り始めた。まずは古代の匕首（あいくち）を入手するため、衛の国を訪れた。衛の国の市場で、荊軻は古物商から匕首を購入した。それは青銅製の美しい短剣で、かつて伝説の刺客が用いたものだという。
「この短剣があなたの腕で再び輝くことを願っています。」古物商は短剣を包みながら言った。
荊軻はまた、暗殺計画に必要な人材を探した。その道中で、彼は一人の男と出会う。秦舞陽（しんぶよう）という名の剣士だ。秦舞陽は若く、荒削りだが剣術の腕は確かだった。荊軻は秦舞陽を気に入り、計画の仲間に加えた。
「荊軻さん、俺はあなたと一緒に戦えることを光栄に思います。」秦舞陽は熱い眼差しで言った。
荊軻は暗殺計画のもう一つの鍵となる人物、樊於期（はんおき）にも接触した。樊於期はかつて秦に仕えた将軍だったが、秦王政に疎まれて逃げ出した身だった。荊軻は丹の依頼で、樊於期の自刎した首を手に入れる必要があった。
荊軻は丹から渡された書状を携え、樊於期の隠れ家を訪れた。樊於期は荊軻を歓迎し、書状に目を通した。
「あなたが燕の太子丹殿から遣わされた方ですね。私はもう、秦王政に追われる身。ここは私の首を差し出し、太子殿に恩を売ることにしましょう。」樊於期は悲しみを湛えた目で言った。
荊軻は樊於期の覚悟を受け止め、その首を頂戴した。暗殺計画は着々と進んでいく。 Act 3: 易水河畔の別れ
荊軻と秦舞陽は咸陽へ向けて出発した。二人は易水河畔で、荊軻の友である高漸離と別れることになった。
「荊軻、お前が帰ってこなかったら、私はどうすればいい。」高漸離は筑を奏でながら、悲しげな表情を浮かべた。
「必ず帰ってくる。お前の演奏をまた聴きに来るさ。」荊軻は高漸離の肩を叩き、笑顔を見せた。
「お気を付けて。」高漸離は静かに頭を下げた。
荊軻と秦舞陽は船に乗り込み、易水河畔を離れた。荊軻は振り返り、岸辺で見送る高漸離の姿を目に焼き付けた。
「荊軻さん、不安ですか？」秦舞陽が隣で小声で尋ねた。
「ああ。」荊軻は静かに答えた。彼の心は高漸離との別れを惜しみ、同時にこれから訪れるであろう過酷な運命に緊張していた。
船はゆっくりと流れに乗り、二人を咸陽へと運んでいく。荊軻は暗殺計画を反芻しながら、秦王政との対峙を想像し、心を奮い立たせた。 Act 4: 咸陽の暗殺
荊軻と秦舞陽は咸陽に到着した。彼らは秦王政への謁見を求め、ついにその前に出ることになった。
「秦王政殿、私は燕の使者として参りました。」荊軻は堂々と宣言した。
秦王政は玉座に座し、鋭い眼差しで荊軻を見つめた。
「燕の使者が何の用だ。早く話せ。」秦王政は冷たく言い放った。
荊軻は古代の匕首が収められた地図の巻物を差し出した。「私は燕の太子丹殿からこの地図を献上するよう命じられました。この地図は、かつて秦が奪った土地のものです。」
秦王政は興味を示し、荊軻から地図を受け取った。荊軻は秦王政が地図に目を落とした瞬間を見逃さず、匕首を抜いて斬りかかった。
「太子丹殿からの贈り物だ！」荊軻は叫んだ。
秦王政は身をかわし、玉座から立ち上がった。荊軻は再び斬りかかり、秦王政の袖を切り裂いた。
「暗殺者め！」秦王政は怒りを露わにした。
荊軻は秦舞陽に目配せし、二人で秦王政を追い詰めようとした。しかし、秦舞陽は緊張のあまり動くことができない。荊軻は一人で秦王政と対峙することになる。
「お前は一人で私を殺せると思ったのか。」秦王政は剣を抜き、荊軻に斬りかかった。
荊軻は剣術の才を発揮し、秦王政の攻撃をかわしながら反撃した。彼は剣を振るい、秦王政の周囲を舞うように動き回った。
「お前は確かに剣の腕は立つな。」秦王政は敵ながら荊軻を認めた。
荊軻は笑みを浮かべた。「私は剣術だけでなく、弁舌の才も持っています。どうか、私の話を聞いてください。」
荊軻は剣を納め、秦王政に語りかけた。彼は丹の復讐心と、秦の圧政に対する民の不満を熱弁した。
「秦王政殿、あなたの圧政は多くの民を苦しめています。どうか、民の声に耳を傾けてください。」荊軻は訴えた。
秦王政は荊軻の弁舌に心を動かされつつあった。しかし、その時、衛兵が荊軻に矢を射た。荊軻は致命傷を負い、その場に倒れた。
「荊軻さん！」秦舞陽は荊軻に駆け寄った。
荊軻は秦舞陽に目をやり、静かに首を横に振った。秦舞陽は荊軻の無言のメッセージを理解し、その場から逃げ出した。
荊軻は秦王政を見上げ、最後の力を振り絞って言った。「私は敗れましたが、あなたの圧政は永遠には続かないでしょう。民の声に耳を傾け、国を治めてください。」
荊軻はそこで力尽き、その生涯に幕を閉じた。 Act 5: 荊軻の死後
荊軻の死後、燕の国は秦の攻勢の前に滅ぼされた。丹は捕らえられ、自刎して果てた。秦王政は中国を統一し、始皇帝として君臨した。
荊軻の友である高漸離は、復讐を誓った。彼は筑の演奏で人々の心を癒しながら、密かに始皇帝暗殺の機会をうかがった。
ある日、高漸離は始皇帝が巡幸で訪れた場所で演奏する機会を得た。彼は筑を奏でながら、その音色に暗殺の決意を込めた。
高漸離の演奏は始皇帝を魅了した。始皇帝は高漸離を側近として迎え入れようとした。しかし、高漸離はそれを拒否し、始皇帝の暗殺を試みた。
高漸離の暗殺は失敗に終わった。彼は捕らえられ、始皇帝の前に引き出された。
「お前は荊軻の仲間だったな。」始皇帝は高漸離を見下ろした。
「私は荊軻の友です。あなたの圧政を止めに来ました。」高漸離は毅然とした態度で答えた。
始皇帝は高漸離の勇気に感心しつつも、彼を処刑するよう命じた。高漸離は始皇帝を前にしても恐れることなく、最期まで友の復讐を胸に秘めていた。
荊軻と高漸離の試みは失敗に終わったが、彼らの信念は後の世に語り継がれ、圧政に苦しむ民の希望の光となった。
こうして、歴史に埋もれていた荊軻と高漸離の物語が、今、ここに蘇る。 筑の旋律、復讐の調べ
高漸離は自由な魂の持ち主だった。彼は幼い頃から音楽をこよなく愛し、特に筑の演奏に長けていた。その旋律は、鳥さえも魅了し、空から舞い降りると言われたほどだ。高漸離は、その類まれな音楽の才ゆえに、やがて荊軻と呼ばれる男と出会うことになる。
荊軻は、高漸離と同じ自由な魂の持ち主だった。彼は、秦の始皇帝の暴政に憤りを感じていた。始皇帝は、秦を統一し、初の皇帝となった男だ。しかし、その統治は苛烈を極め、人々を苦しめていた。荊軻は、そんな始皇帝を暗殺しようと企てていたのである。
高漸離と荊軻は、すぐに意気投合した。2人はよく一緒に酒を飲み、音楽を楽しんだ。高漸離は、荊軻の熱い思いに心を動かされた。音楽を通して、2人は友情を育んでいった。
「高漸離、お前の音楽は本当に美しい。お前の筑の音色には、人の心を動かす力がある」
荊軻は、酒を飲みながら高漸離に言った。
「荊軻兄さん、おだてても何も出ないよ。でも、僕の音楽をそんな風に言ってくれるのは嬉しいな」
高漸離は、はにかみながら答えた。
「お前なら、始皇帝さえも魅了できるだろう。いや、魅了してくれ、高漸離」
荊軻の瞳は真剣だった。高漸離は、その瞳に自分の使命を見つけた気がした。
「荊軻兄さんのためなら、僕にできることがあればなんでもするよ」
そう言って、高漸離は荊軻の暗殺計画に協力することを誓った。 荊軻は、始皇帝に接近するため、献上品を用意した。それは、大きな地図だった。秦は、中国を統一したものの、未だ辺境の地域では反乱が起きていた。荊軻は、始皇帝にこの地図を献上し、辺境の土地を献上したいという遠方の王の使者であると偽るつもりだった。そして、高漸離には、その王の贈り物として音楽を演奏するよう頼んだ。
「高漸離、お前の音楽で始皇帝を魅了してくれ。そうすれば、僕は暗殺を遂げることができる」
荊軻は、高漸離に頼んだ。
「もちろんだ、荊軻兄さん。僕の音楽で始皇帝を夢中にさせてみせるよ」
高漸離は、筑を抱えて笑った。
暗殺計画当日、高漸離は、荊軻と共に秦の宮殿に向かった。宮殿は、威厳に満ち溢れていた。2人は、厳重な警備を通り抜け、謁見の間へと入った。そこには、始皇帝が座っていた。
始皇帝は、荊軻と高漸離を見ると、目を丸くした。
「荊軻殿、これはこれは。わざわざ遠方からお越しいただき、ありがとうございます」
始皇帝は、にこやかに荊軻を迎えた。
「始皇帝陛下、こちらこそお会いできて光栄です。私は、遠方の王の使者、荊軻と申します。王からの贈り物として、この地図を献上いたします」
荊軻は、深々と頭を下げた。
「ほう、これは見事な地図だ。遠方の王からの贈り物か。嬉しいね、荊軻殿」
始皇帝は、地図を広げて喜んだ。
「さあ、高漸離。お前の出番だ」
荊軻の合図で、高漸離は筑を奏で始めた。その音色は、宮殿中に響き渡った。始皇帝は、音楽に耳を傾けながら、地図に目を落とした。
高漸離の音楽は、始皇帝の心を捉えた。その旋律は、始皇帝の心を穏やかにし、地図に集中させた。荊軻は、その隙を狙っていた。彼は、ゆっくりと袖の中に隠していた短剣を握った。
荊軻が短剣を振りかざした時、高漸離の音楽は最高潮を迎えていた。しかし、荊軻の動きを察知した始皇帝の側近が、荊軻を制止した。
「陛下！」
側近の叫び声が、宮殿中に響き渡った。荊軻は、短剣を振り下ろすことができず、その場で殺された。高漸離は、筑を奏でる手を止め、逃げ出した。
暗殺計画は失敗に終わった。高漸離は、身を隠すことを余儀なくされた。彼は、山奥に小さな小屋を建て、そこで隠遁生活を送った。 高漸離は、隠遁生活を送りながらも、音楽への情熱を捨てきれなかった。彼は、山奥で筑を奏でた。その音色は、鳥や獣さえも魅了した。高漸離の音楽は、徐々に人々の耳にも届くようになった。
「あの山の奥で、美しい筑の音色が聞こえるらしい」
「きっと、神様が奏でているに違いない」
人々は、噂し合った。高漸離の音楽は、伝説となっていった。
そんな中、始皇帝は、高漸離の音楽の噂を聞きつけた。
「高漸離という音楽家は、本当に素晴らしい音楽を奏でるらしい。彼を召し抱えたいと思うのだが」
始皇帝は、側近に命じた。
「しかし、陛下。高漸離は、荊軻の友であったと聞いております。危険なのではないでしょうか」
側近は、始皇帝を諫めた。
「構わん。私は、高漸離の音楽が欲しい。連れてくるのだ」
始皇帝の命令は、絶対だった。側近は、高漸離を探し出し、始皇帝の前に連れてきた。
「高漸離殿、あなたの音楽をぜひ聞きたい」
始皇帝は、高漸離を迎えた。
「始皇帝陛下、私の音楽など、陛下の耳に入れるほどのものではございません」
高漸離は、深々と頭を下げた。
「いや、高漸離殿。私は、あなたの音楽の才能を愛でたいと思う。側近として、私に仕えてはくれないか」
始皇帝は、高漸離に提案した。
「陛下のお言葉、光栄に存じます。喜んでお受けいたします」
高漸離は、始皇帝の側近となった。 高漸離は、始皇帝の側近として、音楽を奏でた。その音色は、始皇帝を魅了した。しかし、高漸離の心は、荊軻の無念で満たされていた。彼は、音楽を通して始皇帝に復讐することを決意した。
高漸離は、鉛を仕込んだ筑を作った。その筑は、一見すると普通の筑と変わらない。しかし、その中には、始皇帝を殺害するのに十分な量の鉛が仕込まれていた。高漸離は、復讐の時を待った。
ある夜、高漸離は、始皇帝の寝室に向かった。彼は、鉛を仕込んだ筑を抱えていた。
「高漸離、遅いじゃないか。早く音楽を聞かせろ」
始皇帝は、高漸離を寝室に招き入れた。
「申し訳ございません、陛下。では、お聞きください」
高漸離は、筑を奏で始めた。その音色は、始皇帝の心を捉えた。始皇帝は、ゆっくりと目を閉じた。
高漸離は、始皇帝の寝顔を見た。今なら、始皇帝を殺せる。しかし、高漸離は、ためらった。彼は、筑を奏でる手を止めた。
「どうした、高漸離。続きを奏でてくれ」
始皇帝は、目を開けた。
「申し訳ございません、陛下。私は、罪深い男です」
高漸離は、筑を床に放り投げ、逃げ出した。
「高漸離！捕らえろ！」
始皇帝の叫び声が、宮殿中に響き渡った。高漸離は、捕らえられ、処刑された。 高漸離の悲劇的な最期は、始皇帝に大きな影響を与えた。皇帝は、もはや誰も信頼できなくなった。彼は、孤独な支配者として君臨することになる。
始皇帝は、高漸離の音楽を愛でていた。しかし、その音楽は、復讐の旋律だった。高漸離の無念は、始皇帝の心に影を落とした。
「高漸離のようにはなるな。誰も信じるな」
始皇帝は、そうつぶやいたという。
「筑の旋律、復讐の調べ」
高漸離の物語は、歴史に埋もれていく。しかし、その音楽は、人々の心に永遠に響き続けるだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
