「罪滅ぼしは、そうね……ラーメン奢ってくれる?」
紺野ねね――僕の通う計和大学文学部1年英文科の『委員長』。
肩までのショートカットにきりりとした黒眉と大きな瞳。平均女子より明らかに高い身長。
確かに彼女は『委員長』という記号表示がよく似合う、凜として溌剌な少女だった。
19歳を『少女』と呼ぶのかはさて置くとして。
そんな紺野ねねから僕は絶対逆らえない脅迫をされた。
5月の第一週のことである。

***

 話はたった十五分前に遡る。
 大講堂で「虚数空間iを回転として解釈すると座標変換が可能になります。
ゆえにこの2x+y+iの虚部iは三次元空間として再定義され――」
 といった異世界を開くべく数学講師の山岡が試みた呪文詠唱が無事失敗に終わったようで広い講堂には九十分を知らせるチャイムが鳴り響き、僕はいつもの通りトントンとノートを揃え軽い解放感とともに席を立とうとした。
 辺りではがやがやと賑やかな話し声。
 大抵の生徒は一人か二人の友達と講義に出ていた。
 山岡の講義に限らずすべての講義を一人で受けている僕のような人種は、まあ最前列か最後尾に鎮座するのがしきたりのようで、実際に今も最前列からカバン片手にそそくさ出て行く生徒が数名いるのだが僕はというと何のメリットがあるのか分からないので講師から近すぎず黒板の文字が見えなくもない中央の席に座っていた。
そんな僕がゆっくりノートやら筆記用具やらをまとめて立ったとき。
後ろから肩を叩かれ僕は振り返った。
「音木くん、音木ひろしくん、こんにちは」
と女の子は挨拶した。
何の意図なのか分からないが何の意味かは分かるので
「……こんにちは」とセキセイインコでもできる返答をする。
「あれ? あれれ? 私は音木くんをフルネームで呼んだのに、音木くんは私のファーストネームも、苗字だって呼んでいない。これって等価交換成り立ってないよね?」
 ああ。たった1ターン半会話をこなしただけなのだが、どうやらこの子は……。
「ねえ、音木くん……? おい?!」
僕にとって面倒くさいタイプの人間のようだった。
しかし彼女は通路の側に立っていて、僕がこの席から出るには彼女をのけなければならないのだ。
仕方がない。