ラッフルズ・ホテル

日本軍統治下

第二次世界大戦時の1942年2月15日に、日本軍がシンガポールのイギリス軍を放逐し、その後軍政を敷いたためラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となった。日本軍の占領後に「シンガポール」から「昭南」に改名されたことを受けて、ホテル名は「昭南旅館」に変更された。またメイドの制服も和服になったほか、ボールルームで専属バンドが演奏する曲もジャズやクラシックから、日本の軍歌や民謡に変わった。オペラハウス風の舞台で上演される舞台演目もオペラやミュージカルから、日本の演舞場で上演されるような日本舞踊や、下士官たちに人気のあった大衆演劇に変更された。

日本軍はかつて宿泊したイギリスの名士の記録や愛用品などを、その価値を認めずに破棄した。その中にはサマセット・モームやラドヤード・キップリングが残していったサインなども含まれていた。なお、当時の総支配人は戦争が勃発後にオーストラリアに逃亡し責任者不在だったので、彼が去った後はサーキーズ兄弟最後の生き残りであった金銭にルーズだが、酒好きで陽気でサービス精神が旺盛であるがゆえに顧客に愛された四男アーショクが、放漫経営と大量の飲酒の末にホテル経営に失敗して破産・急死し売却された後も、このホテルに引き続き雇用され勤務していたサーキーズ兄弟の親戚筋にあたるイラン国籍のアラスーン・サーキーズが総支配人の代わりにホテルを守った。

アラスーンは、1910年代からサーキーズ兄弟の親戚としてラッフルズにコネ入社した多くの親族の中で最後まで勤務した唯一の人間で、1920年代末に倒産する前まではホテルの実質的な総支配人であったが、上記のイギリス人たちが残した資料に対しては、高価な備品と違いその価値を認めていなかったため、高価な銀器を中庭を埋めて隠すのと、アルコールの廃棄処分を優先し、それ以外の物には無頓着であった(アルコールの処分を最優先にした理由は、日本軍が香港の「ペニンシュラホテル」を接収したとき、ホテルにあった酒を飲んで酔っ払って暴れる軍人が続出したという情報を事前に得ていたからである)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Raffles_hotel.jpg

何してんねんクソ日本人