斎藤一 Wikipediaから

晩年

明治の末に神道無念流有信館の山本忠次郎が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたところ、斎藤と思われる老人が通りかかり、忠次郎の竹刀で缶を突いてみせた。老人は一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫通したとされる[13]。老人は「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」、「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。私が成功したのはほとんど三の突きでした」などと語ったという[13]。忠次郎はその後も何度かその老人と出会ったが、詮索できず挨拶を交わすにとどまった。有信館は本郷真砂町にあり、当時斎藤も本郷真砂町に住んでいたことが判明している[13][18]。

斎藤は、子供たちにも剣術や武士の心得を教えていたと考えられている。孫の藤田實(満州国建設省勤務。終戦時は陸軍中尉として宮古島に出征)の述懐によれば、父・勉(斎藤の長男~